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12月23日の刻印 [読後の感想]

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「ジミーの誕生日」猪瀬直記著(「東條英機 処刑の日」に改題)を読んで

太平洋戦争が日本の敗戦で終わり、米軍による占領が始まって3年が経過した昭和23年12月23日の異様なできごとをプロローグとしてこの話しは始まる。極東国際裁判のA級戦犯28人の内、死刑を宣告された7人の刑が、22日の深夜から日付が23日に変わるころ、巣鴨プリズンにて密やかに執行された。こうした大きな事象の実行にこの日がなぜ選ばれたのか、これが大きなテーマとなってストーリーが進んでいく。ここから話しは一旦昭和20年8月の終戦受諾の時に戻り、終戦を挟んで起きたさまざまな事実を示しながら、徐々にミステリーのような展開をみせる。

第一章は筆者である猪瀬氏の許に届いた女性からの手紙から始まる。子爵婦人であったというその女性の祖母が住んでいた洋館から古い日記が見つかった。その日記の最後が昭和23年12月7日で終わっており、そこにはただ「ジミーの誕生日の件、心配です」とだけ書かれているというのだ。これは、いったい何のことか。占領という特殊な状況下で何が起きていたというのか。

調べていくと、日記の主である子爵夫人の息子は当時の皇太子と学習院初等科で同級生であったことが明らかになる。そこから、この深い霧のような謎が解け始めていく。米国のマッカーサーによる占領政策の下で、戦争の責任をどう取らせるか、そしてその効果を最大化させるにはどうすべきかという一点に向けて、すべてが明瞭に意図され企てられ、そして淡々と進められていたということを、もつれた糸を一つひとつほぐす様に浮かび上がらせている。

選んだ占領政策を深く浸透させるための最大の仕掛けは、すべての日本人がいつまでも忘れない刻印を残すことであるとマッカーサーは決意しそのとおりに実行された。その仕掛けが日本にとってどれだけ重いものであったか、敗戦から半世紀を経たいまだからこそ、すべての日本人の心の奥深く押された刻印の意味を噛みしめるときなのかもしれない。

それにしても、またあのチャールズ・ケーディスと出合ってしまった。前に白洲次郎を取り上げたときに、占領政策の実行部隊のキーマンとして日本国憲法の草案を作成したGHQのケーディスに着目していたのだが、まさか「ジミーの誕生日」でもこんなに重要な役を担っていたとは。しかも子爵婦人との関係など、あまりにドラマティックな展開。ここまで来ると、誰かケーディスを主人公にしたストーリーを書いてはくれないだろうかと思いたくなる。小説でなくとも映画化でもよい。マッカーサーの占領政策の背後でこんなことが動いていたなんて。

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