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伊達政宗の運河開削 [新聞記事]

teizan.jpg仙台平野の南端、阿武隈川の河口から海岸線に沿うように北へ向かって走る一本の水路がある。これは「貞山堀」と呼ばれている運河で、はるか50キロ先の石巻まで続いている。

作家で仙台出身の佐伯一麦氏が、日本経済新聞の夕刊コラム:あすへの話題で2回(2012年7月28日、8月4日)にわたって、この貞山堀のことを取り上げているので紹介したい。

仙台で生まれ育った私には、海岸へと出る前には、小さな水路を渡るものだという感覚がある。水泳部だった高校生の頃、水泳大会で東北各地の海辺の町を訪れるようになり、競技が終わると、現地の海で泳ぐのが楽しみだった。そのときに、何の前触れもなしに突然海があらわれると、違和感を覚えることがあった。-中略- 私が、海の前には必ず存在しているもののように慣れ親しんできたのが、仙台平野の海岸線と並行して流れている日本最長の運河、貞山運河である。

400年前に、伊達正宗が命じて開削した水路を正宗の諡(おくりな)である貞山にちなんで貞山堀と呼んだのは、明治の土木技師で後に仙台市長を務めた早川智寛だそうだが、この長大な水路は、成立の歴史などから次のように幾つかの堀に区分される。

木曳堀:阿武隈川河口から名取川河口閖上
新堀:閖上から七北田川河口蒲生
舟入堀:蒲生から塩釜市牛生(ぎゅう)
東名運河:牛生から松島湾経由で東名(とうな)から鳴瀬川河口野蒜
北上運河:野蒜から石巻

これらのうち、最初に着手されたのが木曳堀で慶長年間後半とされている、これに少し遅れて舟入堀の開削が続いたようだ。ここには戦国時代の終焉と伊達正宗の仙台築城が深く関わっている。

関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601年)に、政宗は居城をそれまでの岩出山から仙台へ移し、併せて城下町の整備・構築を急いだ。そのために、必要な物資、特に建築資材(木材)を南から大量にしかも急速に運ぶ必要に迫られていた。比較的平坦な仙台平野ではあるが、大規模な土木・建築工事の資材を運ぶには陸路より水路という選択になったのだろう。最も急ぐべきは、福島と仙台の連結、したがって阿武隈川と名取川を海岸沿いの水路による最短ルートで結ぶのが、時間的にも経済的にも最善策と判断したのだ。運河の活用というと、商都大阪や江戸を思い浮かべがちだが、東北の地にも大胆な発想があり、しっかりと実現されていたのだ。

この木曳堀の開削を指揮したのは、政宗がこの工事のために毛利家からスカウトしてきた川村孫兵衛重吉である。

政宗から五百石で召し抱えると言われたときに、重吉は、それなら領内の荒地を賜りたいと答えた。それで与えられたのが、現在の岩沼市の阿武隈川河口に近い土地で、湿地だった荒地の溜まり水を阿武隈川へと排水することで広大な田畑を作ろうとした。その排水路が木曳堀であり、同じ時期に徳川家康より進上築城を許可された政宗が、仙台に城を築き、城下町を作るのに必要な木材の運搬にも役立つこととなった。

使い道のない沖積平野の湿地に手を加え、耕地や居住地商業地として開発し、同時に運輸手段としての水路も確保するという、近代的な土地利用のさきがけが、江戸や大坂ではない東北の仙台平野にもあったということ。しかも、貞山堀がその歴史証拠だというのだが、これはぜひ仙台の誇るべき歴史の一つとして地元の教育カリキュラムに乗せてほしいものだ。

そして、佐伯氏はこうした運河開発譚に加えて、もうひとつの重要な事実に気づいたと記している。それは、木曳堀完成の前に慶長三陸津波(1611年)に襲われていたということである。津波によって、水路も被災したであろうが、なにより侵入した海水の排水に堀が機能したはずであり、さらには水路や周辺地の本格改修は江戸時代の震災復興でもあったのだろうと述べている。

実は小生の高校時代に、この貞山堀を競技用の四人漕ぎ艇(ボート)で毎週のように行き来していた。時には遠漕と称して松島を越え、野蒜まで足(?)を伸ばしたりしていたのだが、そこにまさか政宗の深い知略が埋まっていようとは露も知らなかった。

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