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くだくだしきを笑ひたまふな [読後の感想]

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「ことばのうみのおくがき」大槻文彦 を読んで

大槻文彦という明治の巨人の紹介から始めなければいけない。
時代が徳川から新しい時代に変わったばかりの明治8年に、日本は自らの国の言葉の柱となるべき国語辞典の編纂に敢然として取り組むことになった。その中心でただ一人でこの途方もない責務を負ったのは、そのとき28歳の大槻文彦だった。祖父大槻玄沢は幕末の卓越した蘭学医であり、父の大槻磐渓も仙台の藩校養賢堂の塾頭を勤めた儒学者という名門に生まれた文彦は、本人さえも思いもよらぬ難事業の遂行を委ねられることになってしまったのだ。

この時代、欧米列強が取り組んでいることはすべて取り入れ、消化し、一刻も早く列強に追いつくしか日本の生きる道はないという強い思いが、新しい日本をごりごりと動かしていた。それは、軍事であり産業であり教育であったのだが、その中で国の言葉の統一という点に着目したことは、いまから考えても大変な見識であったと言わざるを得ない。そのころに米国ではウェブスター、英国ではオックスフォードなどの大辞典が編纂され、国力を支える文化教育の力が顕在化したこともあり、同じことを日本でも取り組むべきという意見が出たのであろう。

不思議なことは、その実行が大槻文彦という、わずか28歳の若輩者、しかも大変な勉強家ではあるものの、国語の専門家ではない者を選び、そのすべてを一人に委ねたというところだが、これが明治の明治たるところだと言えばまさにそうなのかもしれない。

この大槻文彦の艱難辛苦については、高田宏氏の「言葉の海へ」に詳しいので、あえて踏み込まない。次の機会には「言葉の海へ」についても紹介をしたいと思うが、ここでは文彦が17年の苦難の後に作り上げた日本初の国語辞典「言海」の出版について、その「おくがき」で述べている文彦の本音について触れてみたい。著作者が完成した作品の最後に付け加える後書きは、普通はあくまでもつけたしであり、多くは謝辞と感謝の言葉で埋め尽くされるものだが、文彦の残している「おくがき」はこうしたものとは全く異なっている。あまりに正直な、壮絶なる苦労の吐露と、壮大なる事業を終えた後に残した深い後悔に満ち満ちており、読む者を圧倒する。同時に17年を機械のように働き続けたものとしてではなく、熱い血を流す明治の男として時代を駆け抜けたことがこの「おくがき」から読むことができる。

大槻文彦の青春のほぼすべてを投入した「言海」の完成には、なんと17年を要している。始めたときには28歳の若き青年だった文彦も、これを終えるときには45歳になっていた。それでも、文彦自身もこの事業にとりかかった最初は、まだ全体像を把握できていないこともあって、軽くみていたところもあったようだ。既に存在するウェブスター辞典を直接の見本として、単語とその説明をそれぞれ日本語に訳し、日本語の順に並び替えればできたも同然だと考えていたらしい。ところが、実際に資料を集め、編纂を始めてみると、まったくそうした想定があてはまらないことばかりであることを思い知らされることになる。国語の辞書を近代国家として初めて編纂するということは、それまで放置されていた言葉の使われ方の原則を完全に洗いなおすということでもある。しかも、言葉は時代とともに変わる生き物であるから、古い使われ方と現在の形の対比を確定しなければ、混乱が混乱を呼ぶことになりかねない。頼りとすべき国語の文法さえも、同時に構築しなければならないことに、文彦は深い迷路に踏み込んでから気づいたのだ。

“筆執りて机に臨めども、いたづらに望洋の歎をおこすのみ、言葉の海のたゞなかに櫂緒絶えて、いづこをはかとさだめかね、たゞ、その遠く廣く深きにあきれて、おのがまなびの淺きを耻ぢ責むるのみなりき。”

こうして完全にお手上げになってしまうのだが、文彦のえらいのは、ここで父や祖父から耳にタコができるほど言われている次の家訓であった。

「およそ、事業は、みだりに興すことあるべからず、思ひさだめて興すことあらば、遂げずばやまじ、の精神なかるべからず。」
「遂げずばやまじ」というのは、できませんという言葉は大槻家にはないということである。これはきつい。きついが、退路を断つという意味では極めて有効であった。「おくがき」に繰り返して書いているように、これがなければ言海の作成は途中で放棄されていたかもしれない。実際にこの途方もない事業の最中に、文彦は次女と妻を急性の病で失っている。一方で経済的にもどん底の状態であったようだ。その際の塗炭の苦しみと悲嘆に暮れた心境さえも、この「おくがき」に隠すことなく記している。

“半生にして伉儷を喪ひ、重なるなげきに、この前後數日は、筆執る力も出でず、強ひて稿本に向かへば、あなにく、「ろ」の部「ろめい」(露命)などいふ語に出であふぞ袖の露なる、卷を掩ひて寢に就けば、角枕はまた粲たり。”

この「おくがき」の最後には、自分の細々とした苦労話をあえて人に示すのもどうかと躊躇した(くだくだしきを笑ひたまふな)と記しているが、やはりこれだけの大事業を支えた人間の存在とその生き様を、こうしたささやかな形でも残しておきたかったのであろう。

さらに、文彦はこの「おくがき」の最後に續古今集の序文を載せて締めくくっている。自分が人生の多くを費やして作ってきたものは、まさに「言葉の海にして拾ひし玉」であったのだ。

續古今集序
いにしへのことをも、筆の跡にあらはし、行きてみぬ境をも、宿ながら知るは、たゞこの道なり。しかのみならず、花は木ごとにさきて、つひに心の山をかざり、露は草の葉よりつもりて、言葉の海となる。しかはあれど、難波江のあまの藻汐は、汲めどもたゆることなく、筑波山の松のつま木は、拾へどもなほしげし。
同、賀
敷島ややまと言葉の海にして拾ひし玉はみがかれにけり  後京極








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