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秀才は独創的でない [新聞記事]

「日本の生きる道」 私の履歴書、利根川進 (第30回)、日本経済新聞、2013.10.31 を読んで

この日で一か月続いた利根川進氏の連載が終了した。1987年にノーベル生理学・医学賞を受賞し、現在もMIT教授など研究の第一線で活躍されている。研究は分子生物学や免疫学から始まって、現在では脳や神経の機能といった領域に対象を広げており、視野のきわめて広い知の巨人でもあることを連載から知ることができた。その連載の最終回では、科学者の適性という話題から入って、研究のような独創的な仕事をする者はどのようにして選ぶべきか、そうした視点では日本の大学の入試の仕組みはあまりに画一的に過ぎるとも述べている。

まず日本には人という資源しかないのだから、自ずと重きをおくべきは教育と研究であるとしている。

日本は天然資源の限られた国です。世界の中でしっかりと認められて豊かな社会を維持していくには、人という資源を生かすしかないでしょう。そのためには教育と研究への投資が欠かせません。

21世紀はアジアの時代だといわれます。人口が多く経済発展の著しいこの地域では今、選ばれたリーダーたちが長期のビジョンを持って教育と科学技術に重点的に投資しています。

表現は控えめだが、これに比べて日本には長期のビジョンがどこにあるかわからぬ状態で、教育にも研究にも力点が置かれていない惨憺たる状況であるとの厳しい指摘であろう。またMITでは、アジアの他の国から多くの若者が集まり競い合っている一方で、日本人留学生は激減しているという。

さらに、MITの学生の選び方は日本のように画一的ではなく、試験の点数の少しの多少よりも小論文と面接を重視し、MITが必要とする学生を見つけ出す努力を続けていること。さらには入学させた学生が本当にMITにとって必要な人材だったかを検証して、問題がある面接官はたちどころに交代させられるという。成績や点数も考慮はするが、MITの大学としての特徴を維持するためにはそれだけでは不十分というのがベースにあるという。

現在、日本でも大学の入学試験改革について試案が出されており、そこでも人物評価を面接で行うという考え方が示されてはいる。しかし、MITが行っているような方法に形だけ合わせても実質が果たして付いていくだろうか。それぞれの大学が歴史に裏打ちされた揺るぎない方針を掲げ、その維持と発展に必要な学生像が明瞭に示せるのであれば、そうした方法の意味はあるかもしれないが、はたしてどうか。極めて日本的に形態を充足して事足れりとしてしまう懸念がありはしないだろうか。

この点数至上主義から脱却する理由として、研究者としての資質について次のようにも述べている。

研究のような創造的な仕事をする場合、試験で高得点を取れる秀才が適しているとは限りません。独創的であろうとすれば、かえってマイナス要因かもしれません。ある仮説を立てた時にどれくらい難しいかを予想できてしまい、高い目標に挑戦する強い意欲を持てなくなるからです。

点数を取れることは必要条件だが、研究者としてはそれで十分ではないということなのだろう。人の能力と量るということは容易いことではない。あらためてそう感じた。




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