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黄昏のビギンを聴いたことがありますか [読後の感想]

ビギン.JPG「黄昏のビギンの物語」佐藤剛、小学館新書、2014.6.7発行 を読んで

一気に読み切った。久しぶりのことだ。同時代感、それにつきる。そのとき流れていた唄、メロデイ、詩、すべてがひとつひとつ蘇る。またひとつ心の糧となるすばらしい本と出合うことができた。佐藤剛氏に感謝。

上を向いて歩こう、黒い花びら、こんにちは赤ちゃん、帰ろかな、等々、作曲家中村八大の手になる作品群。その中で発表時にはあまり大きな反響が得られなかった「黄昏のビギン」という曲。この唄を中心にして、中村八大が関わった戦後日本歌謡史を解き開いていく。曲が世に出てからすでに半世紀、記録も失われ人々の記憶も薄れていく中で残された疑問に挑み、仮説を立てその検証をする。唄に隠された謎を少しづつ明らかにしていくステップは、良質の推理小説の趣がある。詳細はここで明かすことはできないが、戦後歌謡史に興味のある人ならば必読の書であろう。

曲のカヴァー。これがこの本のもう一つのテーマである。中村八大とその世代の作曲家作詞家が壊すまでは、誰かの持ち歌を他の歌手が歌うことなどできなかった。つまり、日本の歌謡曲はレコード会社の販売商品であり、作曲家・作詞家・歌手を専属で契約し囲い込むことによって始めて利益を独占できるシステムであった。当たり外れの多い商品を目利きの腕で仕入れるのだが、商材の多くは単なる金食い虫で利益には結びつかない。だからこそ、囲い込みの仕組みが必要だという理屈に誰も疑問を持たなかった。

日本ではレコード会社が作詞家や作曲家と専属契約を交わして、出来てきた楽曲を各社がそれぞれに独占的に使用していた。他社の歌手に歌わせないのは、競争相手を利させることはないという理屈である。楽曲に商品的な価値しか見出さず、誰もが共有できる社会的な文化財産とは考えなかったのだ。

中村八大は永六輔と組んで、次々にヒット曲を出していく。1959年の黒い花びらから1961年の上を向いて歩こう、1963年のこんにちは赤ちゃん、そして、そして... これらが専属契約を持たないフリーランスの作詞作曲によって成し遂げられたことで日本の歌謡界は大きな構造転換を迎えることになる。作家が相応しい歌手のために、TV番組のために、プロダクションのために楽曲を提供することが当たり前になっていった。レコード会社の独占が壊れることで、優れた楽曲を素材として、歌手の個性と歌唱力で新しい生命を吹き込むこと、すなわちカヴァーが普遍化した。そして、時を超えて歌い継がれる、スタンダード・ナンバーが生まれ出した。その代表的な楽曲が「黄昏のビギン」なのである。

試しに、iTunesで黄昏のビギンを検索するとたちまち30を越える歌手の作品が並んでおり驚かされる。
アン・サリー、石川さゆり、稲垣潤一&島健、岩崎宏美、小野リサ、和幸(加藤和彦、坂崎幸之助)、川上大輔、河口恭吾、佐々木秀実、さだまさし、渋さしらズ&Sandii、セルジオ・メンデスfeat Sumire、鈴木雅之with鈴木聖美、中森明菜、氷川きよし、薬師丸ひろ子...

実は、1959年に水原弘がB面で吹き込んだ黄昏のビギンは発売後ほとんどブレークすることなく、一部の愛好家にだけ知られていたのだが、それから30年後の1991年にちあきなおみがカヴァーアルバムの中で取り上げたことで、知られ始めたという経緯がある。だからこそ、余計にiTunesにちあきなおみ版が見当たらないのは極めて残念としか言いようがない。



コンサルタントの悪い癖 [読後の感想]

「不格好経営」南場智子、日本経済新聞出版社を読んで

読後感の悪い本に出会うことがときどきあるが、この本はかなり爽快だった。これからの南場さんの目指している世界のことも含めて、できれば続編を読みたいと感じた。ここでは、本筋であるDeNA成長のエピソードではなく、おそらく筆者は余談で書いたのだろうが、個人的にはいちばん受けてしまったところについて紹介したい。

それは、10年以上も世界有数のコンサルタント会社であるマッキンゼーに在籍していた南場氏ならではのコンサルタント批判である。批判と言っても、コンサルが不要だと言うのではなく、コンサルの陥りがちなケースを知っておくかどうかで、コンサルを使う側では大きな違いが生じうるということでもあろう。

事業を外から眺めて分析し提案するというコンサルの技法を身に着けてしまうと、いざ自分が事業を先頭に立って引っ張るときには、必ずしもそれがプラスには働かない、もっと言えば足を引っ張ることさえあるという。

「するべきです」と「します」がこんなに違うとは”、と述べているが、これこそ実感だろう。

また、事業トップだけでなく、事業チームでも同じことが言えるという。
迷いのないチームは迷いのあるチームよりも突破力がはるかに強いという常識的なことなのだが、これを腹に落として実際に身につけるまでには時間がかかった。

チームを率いるリーダーに求められることについて次のようにも述べている。
リーダーの胆力はチームの強さにそのまま反映される。それが、クライアントに「役立ったか」、クライアントを 「impress したか」を四六時中気にしていたコンサルタント出身者にとってはとても大きなジャンプなのだ。

このコンサルティングの目的と顧客への配慮が必ずしも同じにはならないという点は少しわかりにくいが、これについては、さらに突っ込んで、南場氏はこれらを「事業にマイナスな姿勢」と呼んで以下のように厳しい指摘をしている。

第一は、できる限り「賢く見せよう」とする姿勢。確かにコンサルは切れ者でかつ賢いなあとクライアントに思わせないと、まず仕事はとれない。高額のフィーを払って、事業の抱える問題を洗い出してもらおうと考えるトップにしてみれば、自分よりも賢くは見えない相手をコンサルに使おうとは、普通は考えない。その結果として、コンサルは賢く見せてあたりまえということになる。しかし、この「賢い」態度が事業の現場ではなんの薬にもならない、アホをさらけだしても切り抜けなければならないことのほうがよっぽど多いのだと指摘する。しかし、これを逆にとれば、賢く見せようとしている事業トップがいたら(というかよく見かけるが)、その会社は危ないという黄信号を出しているともいえるかもしれない。

第二は、「上から目線」。コンサルティング会社ではよく、「あの事業部長はわかっていない」などという類の会話がストレス解消のつもりで口にされることがあるが、これを若手のコンサルタントが耳にしているうちに、たいがいのクライアントはアホと錯覚し、いつしか残念なことに目線が高くなってしまうという。先の「賢い」といい、「上から目線」といい、コンサルというのはいやな人種だと思われてなんぼということなのだろうが、外から見れば痛い話ではある。

第三は、クライアントの中で誰がキーパーソンかを素早く見極め、その人に「おもねる」発言をすることが多いという点。こういう提案はキーパーソンのA氏には必ず受けるという計算が自動的に働いてしまうということだろうか。おもねるというアクション、実はこの時点で第三者であるべきコンサルではなくなっているのだが、おそらく多くのコンサルタントはこれを認めないだろうとも南場氏は述べている。しかし、ここはかなり微妙かもしれない。キーパーソンが納得しないアイデアでは実行に移しがたいので、同化することを全否定するべきではないという意見もあるだろう。しかし、南場氏の言っているのは、そうした性癖が事業リーダーであるときに顔を出したらもうおしまいだという警告である。リーダーが自らの信念にこだわらずに、誰かに「おもねる」態度を見せた瞬間に組織は持たないということを経験として強調しているのだろう。

そんな癖を持っているであろうコンサル会社からも、その才能を信じてDeNAでは採用を続けているという。面白いのは、そうしたコンサル出身者への南場氏の具体的な次のアドバイスである。

・何でも3点にまとめようと頑張らない。物事が3つにまとまる必然性はない。 ・重要情報はアタッシュケースではなくアタマに突っ込む ・自明なことを図にしない ・人の評価を語りながら酒を飲まない ・ミーティングに遅刻しない





マンドラゴラの叫び [読後の感想]



畏友、船山信次氏:日本薬科大学教授より、新著「毒の科学」献本いただいた。
こんどの本は、新書版ではなく、かなり重量級。しかも、カラー図版が多く内容も稠密。これまで、船山氏が著してきた一般向けの「毒」の本の中でも際立っている。ここまでくると、毒に関する科学啓蒙書としては、百科的な役割さえ担って、この領域の頂点に立つと言ってもよいのではないかと思う。とにかく、これが手許にあれば、毒について何か知りたいことがあれば、必ず一定の回答がここにはある。そういったタイプの本である。

もうひとつ、この本の特徴は、新書版と異なり大型(A5版)であること、しかも使われている図はすべてカラー刷りである。このため、古代から中世にかけて、暗殺の横行による毒の恐怖と宗教(あるいは魔術)が重なり合っていた時代の、おどろおどろしい雰囲気が挿絵(多くは中世の宗教画)からにじみ出ている。正直、かなり気味悪いのもある(例えばこの本の最初に掲げてあるマンドラゴラなど)。年少の子供に不用意に見せると、怖い夢にうなされるかもしれない。死の恐怖、毒が持つ悪魔的な力、このイメージは強烈だ。しかし、この本の最大の価値はここにあるともいえる。すなわち、毒を単に科学の視点からだけでなく、人類の歴史文化の中で果たしてきた役割についても力点を置いていることである。船山氏は、毒は死に関わる危険なものとして知られていたと同時に、その存在がむしろ文明の発達を促してきたとも考えられるとして、次のように記している。

人々は毒でしとめた獲物を食べても大丈夫なことを知っていた。これらのことがらは、やがて記録として残されるようになる。古い記録には毒や薬の記載が必ずといっていいほど見られる。まるで人類はこれらのことがらを記録したいがために文字や粘土板、パピルス、紙、筆、墨、インクなどの記録手段を発明してきたかのようですらある。

手に取ると大変に美麗であり、知識の宝庫と呼べるような本なのだが、船山氏は読者に対して次のように注意を発している。

“記述を鵜呑みにして自己または他人に応用されないように”

<マンドラゴラ>
人のように動き引き抜くと悲鳴を上げて、まともに聞いた人間は発狂して死んでしまうという伝説がある。ハリーポッターに出てきたことで知られているように、ヨーロッパの伝承には頻出する。

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「とんでもない」が世界を救う [読後の感想]

Polarlicht_2.jpg「知的創造の技術」赤祖父俊一、日本経済新聞出版社 を読んで

赤祖父氏は世界的なオーロラ研究の権威。東北大学からアラスカ大学に進み、長くオーロラの成因の解明に携わってこられた。最近では「正しく知る地球温暖化―誤った地球温暖化論に惑わされないために」という本などで、温暖化対策に正面から疑問を呈するなど、物言う大御所として知られるようになっているようだ。

その赤祖父氏が、長い科学者としての実績と経験をもとにした「知的創造」のエッセンスを、専門家ではない一般の読者向けに解説したものと期待して読むと、多いに肩透かしをくらうことになる。とにかく、このタイトルは変というか、本の内容をほとんど正しく表していない。なぜこのような堅苦しい、しかも手に取りにくい題を与えてしまったのか、きわめて不可解である。

隆盛と衰退は避けられない。企業も、産業も、国さえも盛衰を繰り返すことは歴史の教えるところである。氏はこれに対し、“盛衰の流れを阻止しなくてはならないと主張しているのではなく、むしろ流れに積極的に立ち向かっていく、そのために必要な創造と革新を進めるにはどうしたらよいかということを述べるのが本書の目的である” と明確に示している。氏はこの「創造」について、トインビーの、“文明の自動化(効率化)は人間の奴隷化を伴い、創造性が失われていくことが国の衰退を招く” という言を引きながら、それではどうすべきかという点に踏み込んでいる。

欧米あるいは日本でも、創造あるいは革新の重要性については多く指摘されながら、具体的にどうすればよいかについては詳しく論じられていないのは、「創造」の定義を知らないからだと厳しく断じている。すなわち、まず創造とは無から有を生み出すことという固定観念を捨てなければならないという。

創造とはすでに存在する2つ、または、それ以上のものを統合すること
この定義は、もともと科学哲学の定義だそうだが、学問はもちろん、芸術や政治にさえ当てはまるという。この世に生まれる新しいことは、すべて古いものの組み合わせにすぎないというのは重要な認識であろう。

科学における大きな進歩は、困難な問題において突破口を発見することであるが、科学創造とは「2つまたはそれ以上の事実または理論を統合すること」であり、企業における新製品の創造と、その定義は全く同じである。そう述べると、現在止まることなく狭い分野に専門化していく科学の世界では当惑する専門家が多いと思うが、当惑すること自体、「科学をする」ということの本質を理解していないことによる。

研究者が専門知識の詰め込みに精一杯で、創造とはかけ離れてしまっているとの指摘だ。さらに創造を具体化するためには大きな難関が待ち受けている。それは、常識になっていることからかけ離れて、常識はずれの「とんでもない」を生み出すことであるという。

「とんでもない」ことを「とんでもある」ことにする

問題が現在のすでに確立されている知識の延長線上にあると考えるため、教科書的例題解法しか頭に浮かばないこと、あるいは既成概念や過去の成功体験から新しい組み合わせが奇異に思え、簡単に受け入れられないことなどが大きな障壁となって「創造」と「革新」の実現をはばむという。それまで、常識と考えられていたことを打ち破るというのは勇ましいが、当然にすぐには受け入れられない。とんでもないとしか表現のしようがないということであろう。しかし、氏はこの反応が大事だともいう。直ちに「なるほど」と受け入れられるものは実は常識的な解であり、創造でもなんでもないかもしれない。したがって、「とんでもない」と言われたときは、提案者はむしろしめたと思ってよい場合があるとも述べている。

この創造のプロセスを氏は「猫のパズル」という話で説明する。最初は猫のパズルと思って試行錯誤していると、どうしてもパズルに合わないピースが見つかったとする。この時の対処として、(1)解いているパズルは猫なので、間違って紛れ込んだピースとして捨ててしまう、(2)そのピースは猫のパズルの一部であることは間違いないので、歪みが生じたか欠けてしまったか、とにかく解決策を探す。(3)パズルそのものに疑問を向けて見直しているうちに、猫ではないピースを他にも見つけ出し、やがてパズルが猫ではなく犬のだったとわかる。真面目な人の多くは(2)にはまるのだが、避けなければいけないのは(1)で実はこれが最も罪深い。これを許すと千載一遇のチャンスをむざむざ捨てるという愚を犯すことになる。困難を克服するには、「とんでもない」と言われることにたじろがず、創造を手繰り寄せられるかにかかっている。

赤祖父氏はこの本のエピローグで、研究者の育成という点について次のように述べている。
科学は常に進歩する。進歩するということは、現在の知識が不十分であるか、誤っていたためである。言葉を換えて表現すれば、科学の知識は常に改革が必要であるということである。・・中略・・科学を進歩させるということは、観測や実験を基礎として、現在広く信じられている理論と合わないことを発見することである。

「とんでもない」が世界を救うのだ。




文彦と八重をつなぐもの [読後の感想]

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「言葉の海へ」高田宏、新潮文庫、昭和59年 を読んで

先に大槻文彦という明治の巨人、日本の言語を辞書という形で構築した最初の人として紹介した。そのときは、言海という大辞書の“おくがき”を材料として先人の偉大なる功績について論じたが、ここに導いてくれたのは、高田宏氏の「言葉の海へ」という作品であった。辞書作成の着手から完成にいたる労苦は、文彦の執念とともに、“おくがき”に書き込まれており、「言葉の海へ」でもそれにしたがっている。この作品はむしろ、そこに至るプロセスと時代背景を詳細に書き加えることで、文彦が17年間という途方もない労苦へ突き進んだ理由を浮かびあがらせている。

日本は明治維新という特殊な国家変革プロセスを経、極めて短期間で西欧列強を追いかける体制を整えたが、その中核になったのは、諸藩選り抜きの若手下級武士である。生まれた年の順に、主要人物をあげると、西郷隆盛(1828年)、大久保利通(1830年)、吉田松陰(1830年)、木戸孝允(1833年)、坂本竜馬(1836年)、大隈重信(1838年)、高杉晋作(1839年)。徳川から明治に移り変わる時点では、ほぼ30代、大隈と高杉に至っては未だ20代であった。若い世代のエネルギーと気迫がなければ、越えられない壁が無数にあったということでもあろう。

こうした中核メンバーに少し遅れて生まれてきた俊才の一人が、1847年生まれの大槻文彦であった。この年齢では、維新の大変動に関与はしても中心的な役割は担ってはいない。1867年に慶喜が大政奉還した際にも、仙台藩主の代行として京都へ上っているが役割はあくまで補佐であった。翌年には鳥羽伏見の戦いが新旧勢力の間で始まったものの、仙台藩はこれに直接に加わってはいなかったが、若い文彦は戦場にあって諜報活動のような役割を果たしていたらしい。薩長を中心とする新政府は、さらに東へ軍を進めて4月には江戸城が開城される。

文彦は大童信太夫の指示で京の町をかけまわっている。京案内の地図で地理もおおよそのみこんだ。「藩の国事に奔走する者の最年少者」であることが、文彦の自負心にこころよかった。同時に、この時勢を、ことに町の様子を、できるだけ落着いてみようとする冷静さがある。

つい眠っていた。妙な衝撃音で目をあけると、すっかり太陽が傾いている。つづいて猛烈な砲声が次から次に響いた。鳥羽の薩長軍が、いつのまにか鳥羽街道にあらわれていた幕軍に、一斉砲撃をしていた。しばらくすると、伏見のほうからも、川向うの街道の幕軍に砲撃を開始した。戊辰戦争の始まりだったのだ。その夜じゅう、文彦は戦場を歩きまわっていた。これが戦争というものだ。何もかも見ておかねばならぬ。

仙台藩、会津藩など東北の諸藩は、新政府に対峙すべく列藩同盟を結ぶのだが、薩長中心の勢いを押さえることはできず次々に敗れ去り、朝敵として責任を徹底的に追及されることとなった。仙台藩でも重臣が多数処刑され、文彦の父である大槻盤渓も、新政府への対抗を指導した論客として禁固に処せられている。文彦は父親の助命嘆願を新政府に対して繰り返し繰り返し行い、その結果としてか、磐渓は処刑されることなく、やがて獄を解かれ自由な立場を手にいれている。

これだけ激しい新旧勢力の拮抗が戦争という形で進められていたにも関わらず、明治維新は旧勢力すなわち幕臣を排除せず、その中からも多くの登用を進めた。西洋列強に伍するためにまず時間が足りない、人の手がない。なにより旧体制の下で育ってきた地方の俊才を、即戦力として新政府に投入できれば、なによりの強化策となりうる。大槻文彦も旧幕臣であったにもかかわらず、その能力を高く評価されて新政府で文部省に採用されている。その3年後には、当時の文部省報告課長・西村茂樹から国語辞書の編纂を命じられることになる。これが、大いなる「言海」への出発であった。

明治維新と東北といえば、1月から大河ドラマの始まった「八重の桜」だが、主人公の山本八重は1845年生まれで大槻文彦よりほんの少し年上である。維新の動乱の中で、どこかで出会いはあったかもしれないが、残念ながら記録には残ってはいない。怒涛の明治維新の中で、二人はおそらく出会うこともなく、自らが選んだ役割を全力で果たしていったのだろう。時代の激しい流れに翻弄されながらも、同時代の東北人として、教育という共通の分野において、日本の骨格を形成する大きな事業を成し遂げたということに間違いはない。「八重の桜」をさらに興味深く鑑賞するためにも、ぜひ「言葉の海へ」を一読されることをお勧めする。(残念ながら現時点では廃刊中なので図書館にてどうぞ)











くだくだしきを笑ひたまふな [読後の感想]

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「ことばのうみのおくがき」大槻文彦 を読んで

大槻文彦という明治の巨人の紹介から始めなければいけない。
時代が徳川から新しい時代に変わったばかりの明治8年に、日本は自らの国の言葉の柱となるべき国語辞典の編纂に敢然として取り組むことになった。その中心でただ一人でこの途方もない責務を負ったのは、そのとき28歳の大槻文彦だった。祖父大槻玄沢は幕末の卓越した蘭学医であり、父の大槻磐渓も仙台の藩校養賢堂の塾頭を勤めた儒学者という名門に生まれた文彦は、本人さえも思いもよらぬ難事業の遂行を委ねられることになってしまったのだ。

この時代、欧米列強が取り組んでいることはすべて取り入れ、消化し、一刻も早く列強に追いつくしか日本の生きる道はないという強い思いが、新しい日本をごりごりと動かしていた。それは、軍事であり産業であり教育であったのだが、その中で国の言葉の統一という点に着目したことは、いまから考えても大変な見識であったと言わざるを得ない。そのころに米国ではウェブスター、英国ではオックスフォードなどの大辞典が編纂され、国力を支える文化教育の力が顕在化したこともあり、同じことを日本でも取り組むべきという意見が出たのであろう。

不思議なことは、その実行が大槻文彦という、わずか28歳の若輩者、しかも大変な勉強家ではあるものの、国語の専門家ではない者を選び、そのすべてを一人に委ねたというところだが、これが明治の明治たるところだと言えばまさにそうなのかもしれない。

この大槻文彦の艱難辛苦については、高田宏氏の「言葉の海へ」に詳しいので、あえて踏み込まない。次の機会には「言葉の海へ」についても紹介をしたいと思うが、ここでは文彦が17年の苦難の後に作り上げた日本初の国語辞典「言海」の出版について、その「おくがき」で述べている文彦の本音について触れてみたい。著作者が完成した作品の最後に付け加える後書きは、普通はあくまでもつけたしであり、多くは謝辞と感謝の言葉で埋め尽くされるものだが、文彦の残している「おくがき」はこうしたものとは全く異なっている。あまりに正直な、壮絶なる苦労の吐露と、壮大なる事業を終えた後に残した深い後悔に満ち満ちており、読む者を圧倒する。同時に17年を機械のように働き続けたものとしてではなく、熱い血を流す明治の男として時代を駆け抜けたことがこの「おくがき」から読むことができる。

大槻文彦の青春のほぼすべてを投入した「言海」の完成には、なんと17年を要している。始めたときには28歳の若き青年だった文彦も、これを終えるときには45歳になっていた。それでも、文彦自身もこの事業にとりかかった最初は、まだ全体像を把握できていないこともあって、軽くみていたところもあったようだ。既に存在するウェブスター辞典を直接の見本として、単語とその説明をそれぞれ日本語に訳し、日本語の順に並び替えればできたも同然だと考えていたらしい。ところが、実際に資料を集め、編纂を始めてみると、まったくそうした想定があてはまらないことばかりであることを思い知らされることになる。国語の辞書を近代国家として初めて編纂するということは、それまで放置されていた言葉の使われ方の原則を完全に洗いなおすということでもある。しかも、言葉は時代とともに変わる生き物であるから、古い使われ方と現在の形の対比を確定しなければ、混乱が混乱を呼ぶことになりかねない。頼りとすべき国語の文法さえも、同時に構築しなければならないことに、文彦は深い迷路に踏み込んでから気づいたのだ。

“筆執りて机に臨めども、いたづらに望洋の歎をおこすのみ、言葉の海のたゞなかに櫂緒絶えて、いづこをはかとさだめかね、たゞ、その遠く廣く深きにあきれて、おのがまなびの淺きを耻ぢ責むるのみなりき。”

こうして完全にお手上げになってしまうのだが、文彦のえらいのは、ここで父や祖父から耳にタコができるほど言われている次の家訓であった。

「およそ、事業は、みだりに興すことあるべからず、思ひさだめて興すことあらば、遂げずばやまじ、の精神なかるべからず。」
「遂げずばやまじ」というのは、できませんという言葉は大槻家にはないということである。これはきつい。きついが、退路を断つという意味では極めて有効であった。「おくがき」に繰り返して書いているように、これがなければ言海の作成は途中で放棄されていたかもしれない。実際にこの途方もない事業の最中に、文彦は次女と妻を急性の病で失っている。一方で経済的にもどん底の状態であったようだ。その際の塗炭の苦しみと悲嘆に暮れた心境さえも、この「おくがき」に隠すことなく記している。

“半生にして伉儷を喪ひ、重なるなげきに、この前後數日は、筆執る力も出でず、強ひて稿本に向かへば、あなにく、「ろ」の部「ろめい」(露命)などいふ語に出であふぞ袖の露なる、卷を掩ひて寢に就けば、角枕はまた粲たり。”

この「おくがき」の最後には、自分の細々とした苦労話をあえて人に示すのもどうかと躊躇した(くだくだしきを笑ひたまふな)と記しているが、やはりこれだけの大事業を支えた人間の存在とその生き様を、こうしたささやかな形でも残しておきたかったのであろう。

さらに、文彦はこの「おくがき」の最後に續古今集の序文を載せて締めくくっている。自分が人生の多くを費やして作ってきたものは、まさに「言葉の海にして拾ひし玉」であったのだ。

續古今集序
いにしへのことをも、筆の跡にあらはし、行きてみぬ境をも、宿ながら知るは、たゞこの道なり。しかのみならず、花は木ごとにさきて、つひに心の山をかざり、露は草の葉よりつもりて、言葉の海となる。しかはあれど、難波江のあまの藻汐は、汲めどもたゆることなく、筑波山の松のつま木は、拾へどもなほしげし。
同、賀
敷島ややまと言葉の海にして拾ひし玉はみがかれにけり  後京極








毒にも薬にも、なる [読後の感想]

doku.jpg「毒」 青酸カリからギンナンまで PHP研究所、2012年6月1日発行 を読んで

畏友船山信次日本薬科大学教授より、最新刊「毒」PHP研究所を献本いただいた。最初のページから、「毒」という怪しい闇の世界に引きずり込まれる。移動の電車、長距離で時間がたっぷりあったため、たちまち読了。面白いというのとは少し違うが、毒を盛るという非日常行為の背景に潜むサイエンスに惹きつけられる。

さて、そもそも「毒」とはなんだろう。船山氏によれば、次のように定義される。

化学物資の中には生物に対して何らかの作用をするものがあり、これらを『生物活性物質』と総称する。そいて、ある化学物質が望ましい作用をした場合、人はその化学物質を『薬』として賞賛する。これに対して、その化学物質が人に対して望ましくない作用をした場合、私たちはその化学物質を『毒』として恐れ嫌う。すなわち、全く同じ化合物でも、場合によっては毒といわれ、また、場合によっては薬といわれることがある。毒や薬というのはいつも人間の側の都合で呼ばれるだけで、その化合物の責任ではない。

なるほど、すべてはヒトの身勝手がなせる業ということか。近年になって有機化学が発達し、毒の姿を化学的に捉えることができるようになっているが、その前まではきわめてわずかな量で死を招くことのできる毒に対して、魔力的あるいは神秘的なものを感じていたことは間違いない。それが高じて、毒を不老長寿の薬と信じて服用し、結果として寿命を縮めた例が少なくないという。医療や薬学の発達した現代では、笑い話のようにも思えるのだが、船山氏は同じようなことを私たちはしていないかと問いかけている。すなわち、「薬になると信じて毒となるものを服用」してしるのではないかという。

ヒトが良くなることを期待して服用する薬とは、実はとんでもないリスクの塊のはずなのだが、それを引き受けるあなたは、いったいどんな根拠でそのリスクを負っても良いと判断したのか、さあ、その薬を飲み込む前にもう一度よおく考えてみよう。そう考えると、この本はかなりこわい。この本、しっかり腹を決めて読みこまないと、怪しい毒の花園へたちまち迷い込んでしまうだろう。

さて、その内容だが、これは新書にしては正直かなり重量級なので、まず最初に覚悟が必要だ。最初の2つの章が、毒の基礎理解を深めるためのパートで、ここで挫けてはその先に待つおどろおどろしい世界には入れない。というか、ここはさっと通り過ぎるような読み方もありかもしれない。船山氏独壇場の毒毒ワールドが始まるのは、第3章:歴史のひとこまを飾る毒、からで、これが第4章:食べ物と毒、第5章:毒による事故、と続いて、だんだん死という言葉が増殖し始める。そのピークは、第6章:毒にまつわる犯罪、であり、ここまで来ると読んでいても苦しくなるような事件がこれでもかこれでもかと続く。

トリカブト保険金殺人事件、本庄保険金殺人事件、二つの愛犬家殺人事件、貴腐ワイン事件、メラミンの粉ミルク混入事件、毒入り餃子事件、青酸カリウムとドクターキリコ事件、和歌山カレー事件、ブルガリア人作家毒殺事件、酢酸タリウムとアジ化ナトリウム、ポロニウムによる暗殺、オウム真理教の犯罪

これらが29ページにわたって、詳細に解説されている。犯罪に使われる毒の要件は、「手に入れやすく、使いやすく、効果が確実」であることで、これだけだとあたりまえのように思えるのだが、実は犯罪に使える毒の選択肢は多くはないという。犯行の後で、足がつきやすいものはだめという点など、なるほどとうなずくところが多い。

それにしても、毒によって人の命を奪おうとする犯罪が、わが国だけでもこんなに連続して起きているということ自体、かなり驚きであった。即効性の毒や遅効性のもの、あるいは投入の量の多少など、それぞれ目的によって選ばれており、ヒトの考える毒の効用の深さと暗さの広がりを思い知る。どうやら、また一つ知らない世界を教えてもらったようだ。


発明は必要の母 [読後の感想]

「なぜ東大は30%の節電に成功したのか?」江﨑浩、幻冬舎経営者新書を読んで

実は、東京大学は東京で最もエネルギーを消費する集団だった。3.11によって生じた電力危機、直後の唐突な計画停電と、さらに夏に向けて節電要請が政府より行われる中で、電気大喰らい組織の東京大学が行動を起こした。この本の著者江﨑浩氏(東大大学院情報理工学研究科教授)は、ITによる省エネを実証するため地震の前に編成されていた東大グリーンICTプロジェクト(GUTP)の代表として活動していたことから、震災直後に設置された学内の電力危機対策チームの中核となった。この本は、大震災からたった3カ月で30%節電を達成してしまった秘密を詳しくしかもわかりやすく明らかにしており、これからの日本のエネルギーを考えていく中で多くの示唆を与えてくれる。

江﨑氏は、WIDEプロジェクトなどで日本のインターネット黎明期からその領域の中心で活動してきた、いわゆるIT系の先頭を走ってきたともいえる経歴だが、その新しいフォーカスがエネルギーというのは時代の流れを映しているようで大変に興味深い。エネルギーに関わるようになる最初のきっかけは、ビルのエネルギーマネジメントにIT、特にネットワーク技術を導入する試みからだったようで、ネットワークのオープンな発想と仕組みを電力制御の世界に持ち込むことでスマート化を実現している。おそらく、電力エネルギーの世界に育ったヒトにはなかなかなじめないアプローチなのだろうが、ここが江﨑氏の本質的な強みになっているのだろう。

学部レベルからすぐに全学の省エネに取り組むようになり、小宮山学長(当時)から「東京大学が節電をするからには、単に省エネを実現するだけでなく、新しい産業を創り出すべき」との難しい命題を与えられたという。ここで氏は、これこそ「発明」が「必要」を創り出すということだと理解した。普通は「必要は発明の母」だから、まったく逆の発想なのだが、インターネットにみるようにこれまでとまったく異なるテクノロジーが誕生した場合には、「発明は必要の母」になるのだという。つまり「イノベーション」が「ニーズ」を生み出すのだ。もっと言えば技術の「不連続」こそが新しい産業を生み出すということだろう。緩やかに改良され効率が改善されていくのは「連続」であり先を見通すことは誰にでもできるが、逆にそこに住む人には見たことのない不連続を創り出すことは決してできない。
※ちなみに、この逆転発想は、技術史家のメルヴィン・クランツバーグ(Melvin Kranzberg)がその第二法則で、「発明は必要の母である」(Invention is the mother of necessity.)として示している。

江﨑氏は、この本の中で、「節電がイノベーションにつながることを確信した」とし、まさに発明が必要を生み出したとしており、さらに次のように述べている。

これまで、多くの企業で節電は「総務部が経費を節減する」ために行われ、事業部がしぶしぶ従うものだと考えられてきました。つまり、「我慢」「忍耐」「縮小」を基調とした節電です。しかし、私は、節電こそ、「知恵」「創造」「成長」を目的に、「事業部が率先して取り組むべきポジティブな仕事」なのだと考えています。(中略)効率化とは、「同じエネルギー消費でより多くの収益を生む」というイノベーションに他なりません。

GUTPの立ち上げから震災後の電力対策までの詳細を、ここで紹介することはできないが、エネルギーに興味のある方にはぜひ一読をお勧めする。先に示したイノベーションの捉え方や、「見せる化」という言葉で代表されるように、テクノロジーに依拠して情報をしっかり公開すべきという主張など考えさせられるところが多い。オープン化こそが、組織の抱える課題を克服できるという意見はきわめてわかりやすいし、腑にも落ちる。隠したくなるのをこらえ、勇気を持って先頭に立てということなのだ。






丸の内仲通りのテロ [読後の感想]

tokyo002.jpg「爆風」沖島信一郎、アルマット、2010年8月30日刊 を読んで

昭和49年(1974年)8月30日(金)午後0時45分、東京都千代田区丸の内仲通りで起きた、「東アジア反日武装戦線『狼』」と名乗る赤軍派による三菱重工ビル爆破事件。三菱重工の社員として事件に遭遇した著者のドキュメント・ドラマ。

爆破によって死者8名、重軽傷者385名を出した戦後最初で最大級の無差別テロ事件。すでに事件から38年が経過している。この事件については、爆破犯の行動を中心に追跡したレポートがほとんどであり、被害者側からの視点が欠落していることと、時間の経過とともに事件の風化が進んでいることが作品としてまとめるきっかけになったという。しかし一方では、被害を受けた当事者が周囲の人間関係を含めて記すには、35年を経ても依然として深刻なところもあり、沖島氏が三菱重工のグループから離れて5年を経た時点をギリギリのタイミングと考えたという。

作品は、実際に起きた爆弾テロを縦糸に、爆破で傷つきながらもビルの中に踏みとどまっていた社員の行動を横糸に織り込んだドキュメントドラマであり、ノンフィクションでも私小説でもない構成となっている。無差別テロという想定外の事実を記録として明確に残しておきたいということと、生命に関わるような非常時に表出した、昭和の人々のやさしさ、思いやり、強い連帯感を平成の今の時代にこそ示したいということがあるようだ。

それにしても、爆発時の描写はすさまじい。以下にその一部を引用するが、その場にいた者にしか描けない内容で、息を飲む。

 その瞬間、猪熊源一郎は、ドドーンという爆発音を、建物全体が突き上げられるような激しい揺れを感じた。九階建ての三菱重工ビルがぐらついた。
 猪熊は、本能的に床に身を伏せようとしたが、その反応よりも寸秒早く、重い爆風がジェット気流のような勢いで床に叩きつけられた。爆風は、部屋の壁にぶつかり、恐ろしい轟音を巻き起こして、ビルの中を振動して駆けめぐった。
 同時に、丸の内仲通りに面していた窓ガラスが粉々に砕け散り、砕けたガラスの鋭い破片が鋭利なナタのような大きさになって、午後の仕事に就こうとしていた社員に向って、猛烈な勢いで飛んできた。(中略)
 社員は皆、猛烈な爆風と鋭いガラスの破片や割れた蛍光灯の直撃を受けて、いっせいに床の上になぎ倒された。

時限装置の仕掛けられた爆発物は、ビル一階のフラワーポット脇に置かれており、爆発によって玄関ロビーが大破しただけでなく、建物内の他の階にいた多くの社員も負傷した。さらに、爆風は衝撃波となってビルに面した丸の内仲通りに吹き出し、通りに面したビル群のガラス窓を丸ビルから有楽町に向う200mの広い範囲で破壊し、そこから降り注いだガラス破片は多くの通行人に降り注いだ。

現在では、理由が宗教か政治かに関わらず、激しいテロは世界のどこかで毎日のように起きている。日本でも、1974年から翌75年にかけて三菱重工爆破事件に代表される過激派による爆弾テロが連続して起きたし、1995年にはオーム真理教による毒ガステロの記憶が新しいが、他の国と比べれば、テロが稀にしか起きない“平和な”国であるといってよい。昭和49年という、戦後復興を果たし、国全体が大きな成長過程にあった勢いのある時だからこそ、理不尽なテロに対しても整然と組織の力を発揮して事故処理にあたれたとも考えられる。

東日本大震災が起きてからの国や東電のオロオロとした対応を見る限り、もしも今、三菱重工爆破事件と同様のテロが起きてしまった場合、この本にあるような整然としたリスク対応はとても望めないのではないだろうか。最後に帯に記されている著者の一文を読んでその思いを強くした。

自分たちの傷をかえりみずに、重症の仲間を救おうと懸命に働いた同僚たちがいた。人間はそこまで人を思いやり、温かくなれるものなのだろうか。生と死が交錯するテロの現場に、そういう人人がいた時代があったということを書き残しておきたかった。

メルケルの転向 [読後の感想]

「なぜメルケルは『転向』したのか」熊谷徹、日経BP社、2012.1.30刊 を読んで

3.11に福島第一原子力発電所で起きた事故は、日本から1万キロ以上も離れたドイツに大きな衝撃を与えた。

それまで、原子力推進政策を支える側にいたと思われていたアンゲラ・メルケル首相が、ほとんど瞬間的に(日本人の感覚で)反対派に転向してしまったのだ。

この本の著者、熊谷氏は、1990年からフリージャーナリストとしてミュンヘンに在住、その後21年間ドイツを中心として、統一後のドイツの変化、欧州統合、安全保障、エネルギー・環境問題を中心に執筆活動を続けている。

福島の事故後4ヶ月も経たない6月の末に、ドイツ連邦議会は遅くとも2022年の末までに、原子力発電所を完全に廃止することを決定した。620人の議員のうち513人(83%)が賛成した。原子力の代替エネルギーについては、再生可能エネルギーの拡大と省エネの促進、石炭やガス火力など代替施設の増強など、関連7法案も可決した。

それまで、まちがいなく原子力推進派だったメルケルが変節した。日本にはドイツの「勇気ある撤退」という部分だけが伝えられ、それに比べて日本は何をしているのかという論調はあったものの、この変節の裏にある社会的な背景についてはほとんど触れられてはいなかった。事故の直後に行われた地方選挙で原発反対派が大幅に議席を獲得したことが大きく影響したという程度の分析はあったが、それだけではこの大きな選択を十分に説明したことになったようには思えなかった。この本の中で熊谷氏は、まずメルケルという女性の生い立ちから、大ドイツのトップに就くまでの道筋を丁寧に追いかけている。そこには、メルケルの行動を裏打ちする時代の流れと勢いがあった。

メルケルは、ハンブルク生まれ。プロテスタント教会の牧師であった父親が派遣された東ドイツに暮らすことになる。当時、東ドイツでは社会主義体制に批判的なキリスト教徒の子どもの多くは大学へ進むことができなかったにもかかわらず、メルケルはそうした差別にあわず、ライプチヒのカール・マルクス大学へ進み、理論物理学を専攻、その後ベルリンの東ドイツアカデミーの理化学中央研究所に科学者として職を得ている。この経歴から、メルケルは優秀であっただけでなく、体性順応力が飛びぬけて高かったであろうことが推察できる。風見鶏だったと言えるかもしれない。

ベルリンの壁崩壊後、政治活動に入り、キリスト教民主同盟(CDU)の中で首相のヘルムート・コールに抜擢され頭角を現すことになる。ここで重要なことは、研究所時代の研究対象に放射線分野が含まれていたことであろう。コール政権下で環境大臣を務めていた際には、物理学者としての知見から、原子力は安全に使用できる技術であるとして、反原発運動に対して批判的な態度を一貫してとっていたし、2005年に首相となった後にも、原子力発電の延命を図った原子力法改正を主導するなど、「ぶれない」政治家であった。

それが、3.11で反転した。それまで、「原子力は過渡期のエネルギーとして必要だ」と言っていたものが、「経済に影響を与えない限り、原子力をできるだけ早く廃止すべきだ」と主張を一転させた。以下に連邦議会において6月9日に行ったメルケルの演説の一部を引用する。

「……(前略)福島事故は、全世界にとって強烈な一撃でした。この事故は私個人にとっても、強い衝撃を与えました。大災害に襲われた福島第一原発で、人々が事態がさらに悪化するのを防ぐために、海水を注入して原子炉を冷却しようとしていると聞いて、私は“日本ほど技術水準が高い国も、原子力のリスクを安全に制御することはできない”ということを理解しました。
 新しい知見を得たら、必要な対応を行なうために新しい評価を行なわなくてはなりません。私は、次のような新しいリスク評価を行ないました。原子力の残余のリスクは、人間に推定できる限り絶対に起こらないと確信を持てる場合のみ、受け入れることができます。
 しかしその残余リスクが実際に原子炉事故につながった場合、被害は空間的・時間的に甚大かつ広範囲に及び、他の全てのエネルギー源のリスクを大幅に上回ります。私は福島事故の前には、原子力の残余のリスクを受け入れていました。高い安全水準を持ったハイテク国家では、残余のリスクが現実の事故につながることはないと確信していたからです。しかし、今やその事故が現実に起こってしまいました。
 確かに、日本で起きたような大地震や巨大津波は、ドイツでは絶対に起こらないでしょう。しかしそのことは、問題の核心ではありません。福島事故が我々に突きつけている最も重要な問題は、リスクの想定と、事故の確率分析をどの程度信頼できるのかという点です。なぜならば、これらの分析は、我々政治家がドイツにとってどのエネルギー源が安全で、価格が高すぎず、環境に対する悪影響が少ないかを判断するための基礎となるからです。
 私があえて強調したいことがあります。私は去年秋に発表した長期エネルギー戦略の中で、原子炉の稼動年数を延長させました。しかし私は今日、この連邦議会の議場ではっきりと申し上げます。福島事故は原子力についての私の態度を変えたのです。(後略)」 

21年間ドイツに暮らし、欧州各国を取材で回っている中で、熊谷氏は南欧諸国の人々が概して楽天的なのに比べて、ドイツ人には悲観的な人が多いことに気づいたという。日本人が好んで使う「喉元過ぎれば、熱さを忘れる」という諺はドイツにはないらしい。ドイツ人はなにごとも「はじめにリスクありき」だという。彼らはリスクの萌芽を見つけると、むしろ最悪の事態を想起するという。そこにドイツ人の完全主義と徹底性、そして完全を何より重く考える姿勢が表れている。確かに、我ら日本人は不徹底でなおかつ曖昧だ。(ドイツと日本は国民性が似ているなんて誰がいったんだろう?)

熊谷氏はこうした日本とドイツの考え方の違いを理解しなければ、メルケルの突然の転向を理解できないだけでなく、ドイツ的な思考法から何も学ぶことができないとしている。日本がだめでドイツが優れているというのではなく、何が違っているかを今こそ知るべきだという。以下に「第4章 はじめにリスクありき」から熊谷氏の主張を引用したい。

「何かにつけて批判的で疑い深いドイツ人に比べると、(日本人は)政府や企業の言うことを無批判に受け入れがちで、どちらかと言えば人の良い国民である。“寄らば大樹の陰”とか“長いものには巻かれろ”という諺はドイツにはない」

「ドイツ人が運命に対して不平を言ったり戦おうとしたりするのに対し、我々は、“どうせ抗ってもむだだ”と考えて、運命を受け入れようとする傾向が強い」

そして、最後に次のように結論づけている。

「福島事故によって、われわれは、“エネルギーについて不安を抱かなくてもよい社会”が幻想であることを理解した... 福島で爆発したのは、原子炉の建屋だけではない。リスクを考えずにエネルギーを湯水のように使える社会、そして人間と安全よりも成長と経済効率を優先した社会も爆発したのだ」


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