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肉食うべし [雑誌記事]

”「肉は食べるな」大間違い” AERA 2013.4.29 を読んで

前にも肉食が体に悪いわけではないという説がある、いやむしろそれは現代医学の常識だという話を紹介した:「健康は脂ぎった食事から」
それ以来、肉料理に出会ったときのプレッシャー(肉の食べ過ぎは不健康!)はずいぶんと減ったように思う。

とkろが、ここのところの本屋の店頭では、「長生きしたけりゃ肉は食べるな」というこの1月に出た本がブレークしているらしい。この本の著者は若杉友子氏。京都在住の、なんと76歳の方。いわく、<現代人は食べ物に無関心です。身体によくないものを食べているから、病気になるのです。お肉はその代表選手です>
しかも肉だけでなく、卵や牛乳などの動物性たんぱくを「全」否定。なにせ、未だ読んではいないのでえらいことは言えないが、昔の日本人は一汁一菜で小食、肉などほとんど口にしていない。だから、今の年寄りは長生きで健康だ!という論調かと推察できる。

ところが、この反肉食論に真っ向から反論する本が、ほぼ同じタイミングで出ているそうだ。著者は人間総合科学大学教授の柴田博氏。タイトルは、「肉を食べる人間は長生きする」。見事に真逆である。

AERAの記事は、そのお二人の他の専門家からの取材を重ねて肉食の真実に迫ろうとしていて、なかなか興味深い。

例えば、慶応大学医学部の近藤誠氏は、「動物性たんぱくを摂るなというのは、大いなる勘違い。動物性たんぱくを断って菜食にすると、一気にやせて体の抵抗力が落ち、短命になります」と説いている。さらに、「そもそもメタボという概念が大間違い。(中略)メタボにさしかかる程度の小太りが実は一番長生き。また、コレステロールが高い人ほど長生きしています。

どうもこうした意見の並べ方を見ると、AERAとしては、肉は食べた方がよいというほうの肩をもちたいらしい。たしかに頷くところは多い。先の近藤氏は、反動物たんぱく室の動きを、「神秘主義」とまで断じている。確かに、徹底したストイックで、修道士のような雰囲気さえ漂っているようにも思える。

そういう食事について、自分を追い込んでいく人がいることは否定はしないのだが、おさそいがあれば正直ご遠慮したい。なにしろ、わたくし、肉が大好きですから。



クオリティペーパーと格差 [雑誌記事]

AERA 2013.3.18号、内田樹の大市民講座、「1億総読者を願う新聞人の素志とは」 を読んで

「新聞は亡びるだろう」、これが内田氏の基本スタンスである。

内田氏は、朝日新聞の紙面審査委員を2年続けてきた中で、ずっと新聞というメディアの行く末について考えてきたという。

欧米には「クオリティペーパー」という新聞のジャンルがある。日本語にすると「高級紙」ということだろうか。
ガーディアン、ニューヨークタイムズ(NYT)、ルモンドなどがそれにあたるとされている。もちろん日本にはない。朝日新聞の発行部数は750万であるのに比べ、最も部数の多いNYTでも100万部に止まっていることが、その新聞が誰をターゲットにして作られているかを明瞭に物語っている。クオリティペーパーは最初から「多様な」読者を狙ってはいない。

これらのクオリティペーパーは知的上層に読者を「限定」している。読者はクオリティペーパーを読んで、政治経済文化についての質の高い調査報道や分析に触れ、現実理解を深める。そして、質の高い情報にアクセスすることのできない「情報弱者」に対するアドバンテージを一層確固なものにする。


欧米のクオリティペーパーの目的は「全国民の啓蒙」ではないし、むろん「知的な平準化」ではない。むしろ、「知的階層格差の再生産」である。


わが国では、古くから国を富ませる源泉は国民の知的水準を高めることにあるとされ教育が重視されてきたが、近代になってからは新聞にもそうした役割があるとされてきた。これまで朝日や読売に代表される新聞が第一に取り組んできたことは、啓蒙主義に立脚した国民の情報格差の是正であったはずだ。大新聞の社是には、「知的階層格差の拡大」などということは微塵もない(はずだ)。


しかし、内田氏は考える。
日本でも、社会の階層化と市民たちの原子化がこれ以上進めば、新聞は亡びるだろう。


悲しいかな、わが国も徐々にではあるが社会格差が拡大を続けている。やがて誰の目にもはっきりとわかるような、少しも平等ではない、でも全体としては豊かな(はずの)、社会が姿を現してくるのだろう。それでもなお内田氏は、
「1億3千万を読者に想定したクオリティペーパー」という虚しい夢を追い求めている日本の新聞人の素志を私は「可憐」だと思うのである。”、と記している。


ほんの一握りのスーパーエリート達が国を引っぱって行く、その情報基盤としてのクオリティペーパー。なるほど、と膝をたたいて更なる欧米化を志向するのか、あくまでも日本的な平等主義を貫くのか。読売だ朝日だと互いを罵っている場合ではないのだが...

健康は脂ぎった食事から [雑誌記事]

「肉・卵・バター食べよう」長谷川熙、AERA 2012.11.19号 を読んで

肉や卵に偏った西洋の食事よりも、ご飯を中心にした日本型の食事のほうが健康的だと疑いもなく信じてきた。こうした日本型食生活は、特に糖尿病を防ぐものとされていた。言い換えれば、肉、卵、バターの摂取は糖尿病にはよくない、避けるべきだということになる。これは日本人の常識であり、脂ぎった食事は、糖尿病はともかく、体に良くないと固く信じていた。

ところが、これは全く逆であるというのが、今や世界の常識になっているというのだ。日本の農業や医療を中心に長く取材を続けてきた長谷川熙氏によれば、我々日本人は食と健康の常識について長く大きな誤りをおかしていたらしい。

糖尿病は、体内で糖質の消費を促進するインスリンの分解が滞るなどの変調をきたし、血糖値が高まることで血管の炎症を促し、それを壊すことに始まる。悪化するとまず目や腎臓などの微細血管が傷み、これがさらに悪化すると心筋梗塞や脳梗塞にいたる。その糖尿病の原因が先ごろ(!)まで炭水化物ではなく、脂肪の過剰摂取によるものと見誤られていた。

しかも、重要なことは、この“間違いに気づいた欧米ではとうに治療の転換がなされているのに、日本ではほとんどの医療現場がまだ旧態依然としている”ことであるという。

糖尿病の原因を、脂っぽい欧米型食生活に求めた従来説の否定に日本で先鞭をつけた一人である大櫛陽一氏(東海大名誉教授)は、「大勢の患者が間違った治療で苦しんでいる。そんななかでむしろ患者が作りだされ有害無用の治療・投薬をされている」と述べている。

それでは、なぜ海外の医学界も近年まで糖尿病の犯人を脂肪と決めつけてきたのか。大櫛氏は。この点について影響力の強い米国糖尿病学会(ADA)に引きずられたことが大きかったとしている。それでもADAは、2004年に「食後に血糖値を上昇させるのは炭水化物のみ」と認める根本修正を行い、糖尿病対策を脂肪から炭水化物の摂取抑制へと大きく方向転換した。それが、炭水化物摂取量の目安を1日あたり130グラムにすることにつながった。ちなみにこの値は、日本人の摂取量平均値260グラムの2分の1である。

こうした新しい知見は、糖尿病患者の治療に適用されただけでなく、健康な人も予防のために炭水化物食を半減させたらいいと同氏は勧めている。

そして、ここが重要なところだが、実は炭水化物摂取が体に良いという神話を作り、維持しているのは他のだれでもない「国」だったと長谷川氏は指摘している。

厚労省が5年ごとに改定する「日本人の食事摂取基準」(最新は2010年版)で、日本人のエネルギー摂取の50~70%を炭水化物でまかなうとしているのだ。さらに、この背景として、2000年に農水省、文部省、厚生省によって定められた「食生活指針」とこれを外食産業にも徹底させるために2005年に定められた「食事バランスガイド」があるという。この指針とガイドラインで食事を主食と副食にわける日本の食習慣が「国策」的に固定化され、ご飯やパン、麺などの炭水化物が最重要食として位置付けられた。糖尿病という医療の問題が、農政の影響下にあったのだ。日本の農業を支えるという大義と糖尿病対策がなんの不思議もなく結びついたのだ。これについて長谷川氏は「糖尿病を国家が多発させている」と断じている。


それにしても、健康に良いと信じてきたことが、全く逆さまであったとは。明日から、いや今日からでも、脂ぎった食事に切り替えていかなければ...

お酒と肉とお菓子が大好き [雑誌記事]

ドリトル先生の憂鬱098、福岡伸一、AERA 2012.10.22より

寿命を制御する遺伝子として華々しく登場したサーチュイン遺伝子。この遺伝子を活性化すると寿命が延びることが、酵母、線虫、ハエなどモデル生物で報告され、さらにカロリー制限による寿命延長さえも説明できるかもしれないというところまできていた。ところが、ほんのここ数年の間にその仮説に疑問が出てきた。簡単に言えば、実験が間違っていたということらしい。そもそも「寿命」というマクロな事象が、たった一つの遺伝子によってコントロールされうるというアイデア自体がひ弱に過ぎたらしい。福岡先生によれば、「生命現象を甘く見てはいけません」ということのようだ。

ところが、ここにきてさらに追い打ちをかけるようなことになりつつあるという。すなわち、とんでも遺伝子の件はともかく、カロリー制限による寿命延長だけは間違いないとされていたものが、どうもそうでもないらしい。つまり、この寿命の延長効果は、ネズミのように寿命が短い(寿命は2年)生物に限って生じると修正せざるをえなくなっているという。

米国国立加齢研究所のアカゲザルを使った研究によると、ダイエットの寿命に与える影響を20年間にわたって根気よく追いかけたところ、死亡率に差が出なかったという。カロリーはエネルギー生産のため必須だが、代謝による活性酸素を生み出すため、過剰なカロリー摂取は長寿を結果として妨げるとこれまでは説明されてきたのだが、それはネズミのように代謝率の高い(したがって寿命も短い)動物には適用できても、サルには適用できないらしいのだ。

いやあ、これにはびっくり。健康長生きの秘訣は、とにかく活性酸素を不要に生じさせないことと信じてきた。信念?に従って、酒も肉も菓子も、見るからにカロリーに満ちあふれているものは、できるだけ控えめに心がけた。粗食がステキ、大食はイカンということにしてはいたが、これがなかなか守れない。それでも、とにかく食事には配慮して節食に努め、なんとか健康を維持し、長生きするぞと思っていた(もちろん勝手にだが)だけに、正直この話は、不意打ちを食らった思いだ。

福岡先生はこう言っている。
「長寿への道は複雑です。あまりヤセ我慢をするべきではない」

そうか、やせがまん、か。これで、いっきにタガがはずれたりして。
どうしようかな...


コンピュータオタクに女子はいない? [雑誌記事]

「なぜ女性からザッカーバーグは生まれないのか」AERA 2012.9.10:編集部 甲斐さやか、を読んで

女性はコンピュータと相性が悪い?という疑問の提起である。これは、意表をつかれた感じ。本来、女性に向いているように思われがちなIT系の業界に、実は女性技術者があまりいないという指摘は驚きでもある。
そもそも日本では小さいころからコンピューターに興味を示さない女の子が多い。社会環境の差だけで説明するには、あまりにも男女差が大きい。

世界的に見ても、名だたるハッカーやIT創業者(多くが自分でコーディングしていた:ザッカーバーグのように)は男ばかり。著名なプログラマーや技術者に女性は決定的に少ない、しかもビル・ゲイツの時代から現在までその状況は大きく変化していない。ようにみえる。これはいったいなぜなのだろうというのが、この特集記事の投げかけた疑問だ。
では、日本ではどうなっているのか。経済産業省によれば、国内IT人材とされる86万人のうち、女性は2割強。大学の情報系学部学科でも同じような状況で、1,2割程度だという。そもそも理系女子の比率も高くはないのだが、これではまた諸外国に負けてしまうと思いきや、かのIT大国である米国でもそうだという。例えば、2010年から2011年にかけてコンピューター科学の学士号を取った女性は、12.7%。生物科学が6割、化学が5割もいるのに比べ、極めて少ない。どう考えてもこの数値は低すぎるようにみえる。

女性がコンピュータに興味を持たないのはなぜか。“男の子と女の子では、脳が欲しがる物語が違う”と語るのは「感性リサーチ」社長の黒川伊保子さん。
世界を俯瞰して抽象的な一般解を出す力や、奥行きをとらえ、全体を見通して現状を把握する力を、男の子の脳は最初から無邪気な感性傾向として持っているんですね。これってコンピューターの世界そのもの。対して、女の子は私だけのモノ、つまり特殊解を求めたがる

先天的な脳の構造が違うのだという説明はわかりやすいが、後天的に取り戻せないほどのものかとの疑問もわく。それに対しては、コンピューターに向かって一般解を出す作業を楽しくマニアックにやれるかどうかが違うために、この分野における男女差が生じているのではないかという。つまり、女性はいつまでも(男の子のように)一般解探しばかりしているより、現実的な応用分野への適用の方に興味が移ってしまうということらしい。男は夢ばかり追いかけていて、いつまでたっても子供だよねということなのだろうか。

こうした男女の違いが、高校から大学への進路選択にも大きく影響していると、津田塾大学の来往伸子教授が指摘している。
高校で文理にコース分けされる前まで数学がそれなりに得意だったけど、英語や社会がもっとよくできるからと文系に進んだ女性のなかに、潜在的な能力を持っている人がいるのではないか
つまり、早熟でコミュニケーション力が高く、目的意識が明瞭な女性ほど、具体的な姿の見えにくいコンピューター科学より、社会に直接に結びついていると感じられる学部学科に流れてしまうのだという。これまでの多くの調査結果は、コンピューター科学に必要な資質において男女の差はほとんどないと示しているし、男女の差が仮にあったとしても、“少なくとも仕事の現場で差し支えるようなレベルの能力差はまったくない”と「ネットイヤーグループ」の石黒不二代CEOは明確に述べている。

なるほど、と思わず膝を叩きたいところだが、その一方で、成績上位の子は医学部へ進むことになっている(医学の道を究めたいから勉強して医学部へ進学するのではなく)という、昔からある進学伝説を連想してしまった。議論の土俵が違っているかもしれないが、適性と進路という選択システムが国の将来を決めるという点では同じく重要な問題だと思うのだが。

「お迎え」の意味とは [雑誌記事]

“死ぬ間際に目にする風景” 三浦麻子:AERA編集部、AERA 2012.8.27より

仙台の南にある名取市、そこにある在宅緩和ケア専門の医院である岡部医院の院長、岡部健氏がこの記事の中心である。岡部氏は、元は呼吸器外科医、「自宅で最後を迎えたい」という患者の希望に応えるべく、1997年に自ら医院を開いた。多くの往診などの中で、死を間近にした患者が「お迎え」について口にするのをたびたび耳にするようになり、これを単なる幻覚の類として排除するのではなく、人間が自然に死を迎えるときに、実は「お迎え」が大きな役割を果たしているのではと考えるようになったという。

岡部氏は、看護師などの病院のスタッフ、東北大の研究者などの協力を得て、過去10年以上、遺族らにアンケートをとり、「お迎え」現象の解明につとめてきた。2011年の調査では国の補助金も受け、宮城、福島の6診療所の協力で、遺族1191件にアンケートを送付。575件で回答を得ている。この調査では、「お迎え」体験を「終末期患者が死に臨んで、すでに亡くなっている人物や通常見ることのできない事物を見る類の経験」と規定している。「お迎え」体験があったと遺族が答えたのは約4割。この数字は大きすぎるのではないかと疑うほどなのだが、本人の病状が重く家族に伝えられなかったケースもあるので実際にはもっと多いのではないかともみられているという。本当かどうかを確かめる術はないのだが、半数の人に「お迎え」が見えるとは...

アンケートによれば、「お迎え」に最も多く登場するのは、家族など縁深い人物で、既に亡くなった人。この真意は亡くなった本人にしかわからないが、半数の遺族には、「お迎えが」来て安らかになったように見えたという。調査にあたった社会学者の相澤出氏も、現象を恐れたり怪しんだりせず、「亡くなっていく過程の自然現象として受け入れていいのでは」と語っており、「お迎え」が見えた場合に医師が認識の調査をすると、意識の清明な(混濁していない)場合も多いという。

岡部医院で働く成田憲史さんは、最初は「お迎え」なんて信じられなかったが、「お迎え」を見ている患者をたびたび目にするうちに考えが変わったという。

すぐそばを指さして『ほら、そこにいるでしょう』と患者さんが言うのを初めて聞いたときには、本当に驚きました。私には何も見えませんでしたから。そういうことが度重なるうちに、患者さんには見えているのだろう、と受け入れるようになりました

末期にある患者の心が何に開かれているか、あるいはそのことが末期医療にどのように織り込まれていくべきなのか。「お迎え」が投げかける課題は静かに深い。

さて、ここまでの内容の記事であれば、緩和医療の視点から見た「お迎え」の意味の発見といったことなのだが、この記事の真髄は実はこの後にある岡部医師へのロングインタビューにある。

在宅緩和医療の第一人者で、十数年にわたり「お迎え」の調査に取り組んできた岡部氏は、いま自らががんを患い、自宅で在宅緩和ケアを受けている。東日本大震災後は被災地の支援にも取り組んだが、今年に入り容態が悪化した。その中での「あの世」と「お迎え」についてのインタビュー。大変に鮮烈な内容で心を撃つ。その一部をここで紹介したい。

昭和20年代は、ほとんどの病人が自宅で亡くなっていました。家族は死んでいく人をみとるのが当たり前でした。病院で死ぬ人と自宅で死ぬ人の割合が逆転したのは1976年。今では病院が8割を占めます。本来、病院は病気を治す「医療」を受けるところ。もう治療する手段がないとなったら、自宅に帰って最期を迎えるべきです。「死」は自然現象なのですから。米国など外国では病院で死ぬのは半数以下。日本でも、患者本人は、本当は自宅で死にたいというケースが少なくありません。 なぜ、自宅で死ねないのか。ひとつは、みとる家族が、肉親の死を避けようとしている。見ているのがつらいという。だが、祖先たちはそのつらさを乗り越え、死を受け止めてきました。逃げ出してはいけない。死んでいく肉親をみとることは、いずれ来る自分の死を受け止めることにもなるのです。” 中略 “もう治療ができないのであれば、今まで生きてきた自分の歴史に包まれた自宅に帰り、普通に飯を食い、糞をし、寝る。だんだん食べられなくなり、「ぼちぼちかいね」と思っていると。お迎えが来て、この世からあの世へ行く。それなら死は怖くない。



丸子川にはホタルがいない [雑誌記事]

丸子川.jpg「ドリトル先生の憂鬱」福岡伸一、AERA 2012.7.16号より

福岡先生の通勤路に丸子川という細い川があり、毎日そこを通るたびに、もしかして小魚が泳いではいないかと水面を覗き込んでいるのだが、丸子川の浅い流れに魚の黒い背を見つけたことはないそうだ。さらに福岡先生は帰り道に暗くなった川面を、もしかて丸子川にホタルがゆらゆらと飛翔していないかと目を凝らしたりしているらしい。これがむなしい夢であることは先刻ご承知なのだが、この気持ちはたいへんによくわかる。なぜなら、私もこの丸子川の辺を徘徊しており、毎朝、毎夕に川面を覗き込んでいるのだから。

丸子川は、東京の西にある特徴的な段丘地形である国分寺崖線に沿って、成城、岡本、瀬田、上野毛、等々力、尾山台、田園調布と続いており、崖からの湧水や雨水を集めて細いけれども清流を形作っている。東京の小河川のほとんどが蓋を被って暗渠となって人の目から消えていることを思うと、この丸子川の佇まいは大変に貴重だといえる。

ホタルがすむ清流にはいくつもの条件が必要で、なにより湿度を保った草と土に覆われた自然の岸を持っていることが必須だという。ホタルの卵は水辺のミズゴケに産みつけられ、微小なムカデのような姿をした幼虫はカワニナという淡水性の巻き貝しか食べないという。そこにカワニナがいなければ育ちようがないのだ。そうして大きくなった幼虫は、川底で冬を越し、春先に日照時間が長くなると岸辺に上陸し、土を掘ってその中でようやく蛹になる。そのためには自然の土手が必要なのだ。

コンクリートで護岸も川底も固められた都市河川では、こうしたホタルにふさわしい環境条件を与えることはほぼ絶望であろう。それならば、コンクリートを剥がして自然に戻せばよいという意見が出てくるのかもしれないが、大都市のど真ん中を流れる河川では、都市の治水という観点から旧に復することは容易ではない。ホタルは別のところで眺めてくださいということにならざるをえないだろう。実は、丸子川近隣の公園などではホタル成育に取り組んでいるらしいのだが。

福岡先生によれば、ホタルそのものよりさらに微妙で限定的な環境条件が必要なのは、その餌となるカワニナのほうであり、ホタルが発生するといういうことの背景には、生物と生物のあいだの複雑なせめぎあいが隠されており、だからこそ、ホタルの淡い光は、その動的な平衡がかろうじて成立していることの証しなのだという。自然を人間が守ろうとするのは決して簡単なことではないのだと改めて思い知らされる。

やっぱり、丸子川でホタルは飛ばないということか。それでも、丸子川にはサギやカモが餌を探して歩いている姿がけっこう当たり前に見られたりするので、もう少しの環境改善はできるように思えるのだが。これは単なる妄想に過ぎないのだろうか。

胸に蛍を抱いて [雑誌記事]

iohani.jpg「暖簾にひじ鉄:連載第541回、91歳の詩人」内館牧子、週刊朝日 2012.6.29号より

作家の内館牧子氏が、秋田市の「あきた文学資料館」で、たまたま見つけた一冊の詩集。その横に置いてある新聞のコピー見出し「91歳の詩人、坂本梅子さん 老人ホームで創作、9作目出版」に引かれ、立ったまま拾い読みを始めたところ、忽ちに引き込まれ、途中から椅子に座ってさらに読み進んだ。もちろん、それでは足らず、東京に戻るなり出版社に連絡をして買い求めたという。

この詩集の作者坂本梅子さんは、今年の3月13日に101歳で亡くなられていたのだ。60歳過ぎまで秋田の特定郵便局員として働く中で、50歳過ぎから詩作を始めたもの。89歳の頃に田沢湖町に近い西木村(現・仙北市)の特別養護老人ホームに入ってからもその活動が続き、91年には秋田県芸術選奨を受賞するなどした。

詩集『いろはにほへどちりぬるを』は、坂本さんが入られた山奥の老人ホームでの暮らしや思いを描いているのだが、「一人で個室で暮らし、死について孤独について家族について、多くを思う日々であっただろう」と内館氏が指摘するように、同書には激しくも静謐な作品が数多いという。特に、内館氏が「衝撃的」と表現した詩集の最後の一篇を次に紹介したい。

 「夜の山と老人」

 山はたそがれ
 ホームの老人もたそがれて
 山は暮れ
 ホームの日も暮れて
 山は夜のいろ
 老人は夜の舟に揺られ
 胸に一匹ずつ螢を抱いて
 光ったり 消えたり
 山は闇に座したまま
 光もせず 消えもせず
 老人は胸に明滅する神さま
 を抱いてねむる

「胸に一匹ずつ蛍を抱いて」いる老人たちの孤独と哀しみが心に染み入るようだ。内館氏によれば、「蛍」とは希望のことで、「きっと明日はホームで楽しいことがあるかもしれないとか、誰かが訪ねてきたり、手紙や電話が来るかもしれないとか、ポッと蛍が光る。だが、そんなことはないだろうなと蛍は消える。いや、あるかもと明滅する。そうやって、闇に溶ける山々と眠る日々」

そして最後に、「この一篇は、百万語を重ねて家族や老人を表現するものを駆逐する。91歳の詩人である」と断言している。

レバーがおいしい理由 [雑誌記事]

「ドリトル先生の憂鬱」福岡伸一,AERA 2012.6.18より

とうとう、牛の生レバーの飲食店での提供が、食品衛生法に基づき来月から禁止ということになった。この規制強化は、昨年夏に生の牛肉の中毒から始まったものだ。食文化の多様性という点で、日本には世界でも最もバラエティに富んだ食材があり、しかも新鮮でかつおいしい。そして、生食に味覚の価値を求めるという世界的にも珍しい国ということになっている。例えば、卵を生で食べるという習慣は、他にほとんどないという。そんなことを疑問にしないほど、清潔で安全な食が一つの極みに達しているということでもあろう。

生のレバーが一番かどうかは、置いておくとしても、レバーを食することを好む人は多い。レバーが生命体にとって代謝の中心臓器で、タンパク質と脂肪がミルフィーユのように折り重なっていると聞いただけでなんとなくおいそうではないか。それにしても、内臓を「おいしい」と感じるのはなぜだろう。そこに福岡先生はこう説明する。

「タンパク質や炭水化物はそのままでは味がしません。分解され始めると味成分が花開いてきます。おそらく進化の過程で、獲物が傷ついて弱っていたり、死にかけて動きが緩慢になっていたりする状態を、そこから漂ってくるアミノ酸や当のにおいを手がかりに探索する術を身につけたからこそ、それを『おいしい』と感じるようになったのでしょう。」

弱っている生き物に特有の「臭い」を嗅ぎ分けることが生存の必須条件だったという話しは、なるほどと頷かざるをえない。死臭が私を呼び寄せる、と言ってしまうとまるでハイエナのようだが、生き続けるため、家族を養うためには栄養分の高い食物を集め続けることが避けては通れない。

もう一つ、福岡先生は、ヒトの肝臓は臓器の中の「家父長」的な存在だという。
「一番最初にお膳に箸をつけるのも、一番風呂に入るのも肝臓の特権です。」
つまり、ヒトが摂取する食物は消化管で消化され栄養素として吸収されるが、それらが血管を通して肝臓の入口に集められ、いわば独り占めになる。肝臓はこうして集めた栄養素を使ってまず熱エネルギーを生み出すので、血液が温められ、これが全身に熱を送ることになる。肝臓は一番風呂に入るというより、風呂は自分が沸かしているのだそうだ。肝臓がちゃんと働かないとヒトは温かくならないということは、熱エネルギー発生装置であるということだ。体内の血流を維持する心臓が一番大事だと考えやすいが、エネルギー転換装置である肝臓の方が、確かにお父さん的だというのはよく理解できる。

福岡先生は、こうしたレバーの話の最後に次のように述べている。
「レバーを食べるのもいいのですが、まずは自分の肝臓をいつくしみたいものです。」


道路に礼を言う人はいない [雑誌記事]

「社会安全哲学の構築に向けて」丹保憲仁北海道立総合研究機構理事長に聞く、土木学会誌 vol.97 no.6 June 2012より

北海道大学総長、放送大学学長などを歴任された丹保氏は、環境工学を専門とする土木界賢人の一人だが、今回の震災における土木屋の社会からの評価という点について興味深い意見を述べられている。

土木というのは、もともとはメソポタミアやエジプトなどで文明が誕生して人が集まり、灌漑や洪水など水をコントロールしなくてはならなくなり始まった学問です。・・中略・・本来的に土木は中央集権型の技術であり、学問です。・・中略・・大型の仕事を上からやる技術者集団で、下から立ち上がってくるシビルエンジニアというのは、近代になってからのヨーロッパの発想です。・・中略・・黙っていれば上から見てしまいます。それに対する反省は常に現代の土木には必要です。

この土木に対する指摘は重要だ。国家発展を目的として、社会のインフラを大規模に形成するのは“お上”の仕事だから、下々の者はその内容を知る必要はないという立ち位置が最初にあるという。中央集権で上からの目線をよしとするのは、全体の効率を最も重視するからであって、激しい国造り競争を戦い抜くにはこれしかなかった。しかし工業化が進み国が豊かになるとともに、社会を支えるのは集中権力から自立した個人の集まりへと変わっていく。

現代の土木はシビルエンジニアリング、市民土木ということですから、個人個人へのサービスを提供する・・中略・・サービスは受けるもので、受けていることに対する意識がない方が上です。サービスされていると思うのは、まだサービスのレベルが低いのです。・・中略・・お母さんが子どもの面倒を見るのに、サービスという意識はありません。それがサービスの根源です。ですから、サービスの対句は無意識系です。・・中略・・最高の質のものをいつでも供給できることが要求されるのが、シビルエンジニアリングです。

あまりにあたりまえになっていて、存在さえも意識から消えうせているようなもの。蛇口から出る水や、コンセントの先にある電気、遠い昔から存在しているような気がする鉄道や橋梁など。

サービスは行き着くところは無意識系ですから、道路を走って、1回1回つくった人にお礼は言いません。建築屋だったら、家をつくった人にお礼を言います。土木と建築は同じようで全然違うのです。

確かに、橋を渡るときにそれをつくった人に礼は言わないし、トイレを使うときに下水道をつくった人に礼は言わない。インフラを構築するということは、結果として提供することの規模感が日常性をはるかに越えていたり、そのシステムが漠としてつかみ難いために、直接の便益がつかみにくく、わかりにくい。そのくせ、サービスがなんらかの理由で破綻したり遅延しようものなら、徹底的に糾弾される。場合によっては社会の敵だとさえ言われかねない。かくも大変なことを担うのが土木屋なのだ。これでは割に合わないと考える若者が増えても少しもおかしくはない。

丹保氏はインタビューの最後でも、次のように土木屋を叱咤している。
エンジニアは自分が死ぬ思いでやらないといけない・・中略・・土木学会の会長も務めた廣井勇は、自分が設計した鉄道の橋を列車が渡るときに、ちゃんと渡ってくれるだろうかと、初めから終わりまで橋のたもとで震えていたといいます。それくらいの緊迫感と恐れを今のエンジニアは持っているのでしょうか。

命を刻むような努力を放棄しておいて、想定外などという甘ったれた言葉を弄するなということであろう。小生も技術屋の端くれとして、丹保氏のこの叱正をしっかり受けとめたい。

タグ:土木 建築
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