SSブログ

島津と相馬 [メルマガから]

鎌倉時代から700年以上も同じ地を統治した一族は日本で三つしかない。島津、相馬、相良の三家のみである。その相馬と島津が邂逅した。加治木島津家十三代当主であり野太刀自顕流の使い手でもある島津義秀氏と相馬高校の剣道部との交流を仲立ちした、東大医学部の前田氏がその体験を訪問記としてまとめている。

3.11から1年が経過した中で、どっしりと腰を据えて復興に奮闘している現場の人たちの姿が浮かび上がる。前田氏が最後に訪問し懇談した立谷秀清相馬市長との会話が、氏に強烈な印象を残したことがよくわかり、市長の勝手応援団としては大変に興味深い。

市長は「誰のせいにもしない」という。誰かのせいだということにしてしまうと話は簡単かもしれないが、結局はものごとはなにも進まない、進む速度ががたんと落ちるという。時間と闘っているときに誰のせいなどということはどうでもいい。こうして腹を括ったリーダーがいることがなにより大事だと改めて感じる。

なお、きっかけになった島津と相馬の邂逅については、ロマンたっぷりでさらにその歴史背景を知りたくなるところだが、ここでは省かせていただいた。

-------------------------------------------------------------------------

東京大学医学部医学科五年
前田 裕斗
2012年3月28日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
Vol.445 「復興の精神―相馬と薩摩、二つの意地」 より一部転載

(前略)
私は東京大学医学部医学科の五年生で、今回相馬市立総合病院で働いている坪倉正治医師が知り合いということもあり、福島県相馬市を訪れる機会に恵まれた。ここでは現地で直接見てきた、聞いてきたことをお届けしたいと思う。
(中略)
夜は市長を含む相馬市役所の方々と現地の医療・教育についての意見交換を行った。印象的だったのは市長のリーダーシップの下、多彩な人々が相馬市復興のた め働いていたことだ。例えば建設部長の小山健一さんは、国土交通省から派遣されてきた方で、一度は任期を終え中央へ戻るということで花まで貰ったが、震災を受け相馬市に残ることを決断した。特技はボイスパーカッションという、なんともユニークな方だ。阿部勝弘さんは秘書課係長で、市長の補佐役として尽力している。震災後、休みを初めて取れたのはいつですかと聞くと、「四月末か五月か...覚えてないですね。とにかくしばらくは役所に行かない、という日はなかったです。」とのことで、当時は市役所に布団を敷いて寝泊りすることもあったそうだ。個人としても相当なストレスがかかり心労の溜まる中、現場の人々はこんなにも頑張っていたのかということに驚かされた。

さて、最後に今回私が経験した中で最も心に残った言葉を記そうと思う。それは、立谷市長の「私が震災当初から守り通している考えが一つある。それは誰のせいにもしない、ということだ。」という言葉だ。人のせいにしない。天のせいにもしない。誰かの、なにかのせいにすれば誰が責任をとるのか、どこまで補償してくれるのかといった議論になり結果復興に取り組むのが遅れていく。そうではなく、現場の中で今復興のために何が出来るのか、必要なことはなんなのかを考え実行していくことが大切だ、と。相馬市の人々は、復興のため現在も頑張っている。

(後略)
-------------------------------------------------------------------------
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

-

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。