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人がコンピュータに駆逐されるとき [新聞記事]

「コンピューターが仕事を奪う(上)」新井紀子国立情報学研究所教授、日本経済新聞 2013.5.19、経済教室を読んで

先月行われた、第2回将棋電王戦で将棋ソフトが勝利したことは、やはり予想以上の衝撃を与えたようだ。1997年にチェスの世界チャンピオン(カスパロフ氏)がIBMのスーパーコンピューターに敗れた時に、いつかは将棋でも同じことが起きるだろうとは思ってはいたが、現実にしかもこんなに早く実現しようとは。

将棋はチェスと異なり、獲った敵の駒を再び使えることで変化の枝が多く、しらみつぶしが得意なコンピューターでも、そうたやすくは人間の能力を越えられないだろうという、淡い思いがあった。これを打ち破ったのは、物理的なマシンパワーだけではなく、むしろソフトの力によるということらしい。その中心にあるテクノロジーは「機械学習」。最近でよく知られているのは、防犯カメラによる容疑者認識だが、他にも音声認識(Siriなど)、機械翻訳、音声合成、検索エンジン、スパムメール検出などなど、その範囲は急速に拡大しているらしい。

「データ」と「機械学習」という手段を将棋ソフトが手に入れたからである。公開されたプロ棋士の対戦の棋譜(データ)を基に、プロ棋士が選んだ指し手こそ価値が高いと認識し、さらにその評価を少しずつ自動的に調整する(機械学習)プログラムの登場である。

これはなんてすばらしい未来の登場ではないか。などと浮かれている場合ではないと、新井氏は次のように述べている。

スパム除去ソフトはメール管理者をスパムメールとの格闘から解放した。では、彼らの仕事は楽になっただろうか。そうではない。結果的に彼らから職を奪ったのである。

作業のある手順をルール化して機械にわかるように書き下してやれば、コンピューターが文句も言わずに淡々と処理してくれる。人間を単純労働から開放する歴史的な福音だなどとこの事態を歓迎しているだけではいけないというのだ。すでに米国や英国では、入試の小論文採点に自動採点システムが導入されている。人が二人で(誤りを避けるため)採点するより、人とコンピューターのコンビのほうが低コストでしかも精度が高いのだそうだ。つまり、「そこそこ」の知的作業はコンピューターによって急速に代替されつつある。

少子化する日本(あるいは先進国)で、機械によって労働の代替ができることは悪いことではないという考えもあるが、ここに3つの不安が横たわっているという。

ひとつは、機械学習の精度がデータ量に依存すること。学習の複雑さを向上させるより量が決め手だというのは悲しいが、確かに事実かもしれない。Googleは最初からこのことに気づいていたのだろう。

ふたつめは、未熟な人工知能では人を完全に労働から解放はできないということ。機械にできない仕事は両極端に分かれることが知られており、機械が「そこそこ」の知的労働を代替することで、労働は上下に分断されることになる。

みっつめは、機械で代替できない「高度人材」を教育するための効果的な手法が見つからないことにある。

この三番目の課題は新井氏が指摘するようにたしかに大きく難しい。

20世紀までの学校教育が成功をおさめたのは、教育がプログラム化でき、多くの生徒が訓練さえすれば能力を身につけられたからである。そして、プログラム学習で身に着いた能力が労働市場で十分な付加価値をもったためである。

教育・訓練が機械で代替されてしまう現実の到来を十分には見通してこなかった。コンピューターシステムの進歩と拡大は、人に明るく豊かな未来だけを与えてくれると信じていたのだが、いま生じつつある「未来」は、そうした夢の世界へは決して向かってはいないということだろう。


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