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偉くなりたくない症候群 [新聞記事]

日本の若者の人生観は「偉くなりたくない」がいっそう鮮明に。日経6月28日に掲載された千石保氏(日本青少年研究所理事長)の寄稿から紹介したい。

学校でクラス委員のなり手がいない。自分の時間がなくなり、雑用が増え、先生にはしかられ、何もいいことはない。そんなクラス委員になりたいという学生はなかなかみつからない。

この気分は社会に出ても変わらず、「偉いと責任ばかり多くて損をする」、「リーダーになりたくない」、「何の責任もなく楽しくやれればよい」だから「暮らしていけるだけの収入があればのんびりと暮らしていきたい」となる。この傾向は中国、韓国そして米国とも全く異なっており、国としての活力や勢いのある側面を浮かびあがらせているとも見える。(グラフ参照)
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なぜ、若者の心がそうなったのか?豊かな時代に育った若者には、昔のような「勇気」や「冒険」や「知恵」はもう必要がない。企業間の格差も縮まり、よい大学や一流企業はあこがれではなくなった。高い社会的地位につく、お金持ちになる、自分独自の技術を持つことも人生の目標ではなくなった。豊かな消費社会に入った1980年代以降、「平凡」がいい社会になった。頑張らなくてもいい、目立たなくてもいい社会になった。

千石氏が指摘するように、貧しい暮らしの中でも豊かになることを夢に見、そのために勉強し努力することが夢の実現に結びつくとすべての日本人が信じていた時代は、いつか遠い過去の思い出になってしまった。

しかし、日本の経済発展のピークが1990年代の前半であったとすると、わずか10年間程度で国としての達成感を獲得し、一気に満腹モードに変わったとしか説明のしようがない。その先に目指すべき未来をしっかりと設定できなかったのか、すでに心が挑戦モードではなくなっていたのかはわからないが、国家としてはまだ坂を登っているつもりなのに、実はゆっくりと転がり落ち始めていたのではないか。教育熱心で勤勉な日本がたやすく追いつかれるはずがないという勝手な思い込みが転落を加速した。その長いゆるやかな転落が、「偉くならなくてもいい」若者をゆっくりと産み続けてきたのだろう。

幕末から明治にかけて、このままでは国が滅びるという素朴な恐怖が、坂の上の雲を目指すしかないという若いチャレンジャーの背中を押した。いま本当に必要なのは、ゆるやかな下り坂の向こうには無限の底知れぬ闇しかないという絶望と覚悟、そしてそこから心底逃れたいと願い続けることではないだろうか。

タグ:人生観
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