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浦戸の島の女たち [雑誌記事]

「吉岡忍が被災現場を歩く」週刊朝日2011年6月17日号
ボランティアも来ない宮城県・浦戸諸島、たくましい島の女性たちの震災奮闘記 を読んで

ノンフィクション作家の吉岡忍氏が、今週号の週刊朝日6月17日号で、東北の津波被災地でのルポをまとめている。ボランティアもほとんど入ってこない離島で、自分たちの手で復興を目指している、そのたくましい奮闘を追ったもの。

吉岡氏はまず松島の町に入り、そこで津波の被害がその周辺に比べて少ないことに驚く。松島湾の入口に並ぶ島々が防壁となって津波を減衰させたのだ。津波で海面は盛り上がってあふれてきたが、街を破壊しつくすだけのエネルギーは失われていたのだ。

しかし、景勝松島が守られたということは、小さな島々が津波を正面からまともに受けたということでもあろう。それが桂島、野々島、寒風沢島、朴島など浦戸の島々だった。

氏は中でも被害の大きかった野々島と寒風沢島を訪ねている。

「このあたりの島々の人たちは漁業で食べてきた。アサリやウニの採貝、カレイやアイナメの刺し網漁、牡蠣と海苔の養殖などである。とりわけ松島湾とは反対側、外洋の荒々しい波にもまれて育った牡蠣は身が締まって美味、と評判だった。3.11大津波はどの島でも、その養殖棚の全部と、仕事に使う船外機付きの小型船のほとんどを陸や岸壁に叩きつけて破壊するか、流し去った。」

「島に行って最初に気づくのは、被災者がよく働いていることだ。被災から2ヵ月半が過ぎたが、行政やボランティアの支援は島まではなかなか届かない。」

「野々島には48世帯、98人が暮らしていた。8割の家が全壊か流失、残った家も海水に浸かって傾いだり、土台下の土をさらわれて使い物にならない。無傷で残ったのは数軒しかない。ただ、全員が高台に避難したので、犠牲者はいなかった。」

そして浦戸でもっとも大きな島、寒風沢島を訪れる。77世帯、174人が暮らしてきた島には漁業だけでなく田畑もある。

「頼りになる男手が出払っていたところに、大地震と大津波が襲った。走り回ったのは50代、60代の島の女たちだった。」

津波に襲われ、島の高台に辛うじて逃げることはできたものの、雪が舞い寒い日で、眠ろうとしても眠れず、非常用の乾パンも喉を通らなかった。

「明け方、内海は女たちに、暖かいご飯、作ろうか、と誘った。たちまち十数人の島の女たちが動き始めた。その場の男たちも立ち上がり、暗いなかを家へと向かい、傾いたり、海水に浸かった台所から食料品を運んできた。」

「こうして、避難所3ヵ所に分散した百数十人分のおにぎり作りが始まった。島の女たちの奮闘の、これが第一歩だった。」

島の復興は他の被災地と異なり、足が船しかないことが制約になって支援が進まない。自衛隊ですら、行方不明者捜索のために数日滞在しただけである。大型機材の投入も期待できないまま、地区ごとでまとまって、結局は自分たちでやるしかなかった。島の女たちの元気で島は少しづつ元気がもどってきたようにみえる。しかし、吉岡氏は指摘する。

「そう見える。だが、みんな、何かを失っている。」

そして最後にこのルポを次の文章で締めくくっている。
「これは、3.11を生き延びた島の人たちの、小さな記録である。口には出さないが、誰もがこのまま島の暮らしが存続できるとは思っていない。住民も半分に減るだろう。だが、島人たちはこの数十日間、耐え、働き、奮闘した。一人一人のその姿は書き留めておく価値がある。」
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