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道路に礼を言う人はいない [雑誌記事]

「社会安全哲学の構築に向けて」丹保憲仁北海道立総合研究機構理事長に聞く、土木学会誌 vol.97 no.6 June 2012より

北海道大学総長、放送大学学長などを歴任された丹保氏は、環境工学を専門とする土木界賢人の一人だが、今回の震災における土木屋の社会からの評価という点について興味深い意見を述べられている。

土木というのは、もともとはメソポタミアやエジプトなどで文明が誕生して人が集まり、灌漑や洪水など水をコントロールしなくてはならなくなり始まった学問です。・・中略・・本来的に土木は中央集権型の技術であり、学問です。・・中略・・大型の仕事を上からやる技術者集団で、下から立ち上がってくるシビルエンジニアというのは、近代になってからのヨーロッパの発想です。・・中略・・黙っていれば上から見てしまいます。それに対する反省は常に現代の土木には必要です。

この土木に対する指摘は重要だ。国家発展を目的として、社会のインフラを大規模に形成するのは“お上”の仕事だから、下々の者はその内容を知る必要はないという立ち位置が最初にあるという。中央集権で上からの目線をよしとするのは、全体の効率を最も重視するからであって、激しい国造り競争を戦い抜くにはこれしかなかった。しかし工業化が進み国が豊かになるとともに、社会を支えるのは集中権力から自立した個人の集まりへと変わっていく。

現代の土木はシビルエンジニアリング、市民土木ということですから、個人個人へのサービスを提供する・・中略・・サービスは受けるもので、受けていることに対する意識がない方が上です。サービスされていると思うのは、まだサービスのレベルが低いのです。・・中略・・お母さんが子どもの面倒を見るのに、サービスという意識はありません。それがサービスの根源です。ですから、サービスの対句は無意識系です。・・中略・・最高の質のものをいつでも供給できることが要求されるのが、シビルエンジニアリングです。

あまりにあたりまえになっていて、存在さえも意識から消えうせているようなもの。蛇口から出る水や、コンセントの先にある電気、遠い昔から存在しているような気がする鉄道や橋梁など。

サービスは行き着くところは無意識系ですから、道路を走って、1回1回つくった人にお礼は言いません。建築屋だったら、家をつくった人にお礼を言います。土木と建築は同じようで全然違うのです。

確かに、橋を渡るときにそれをつくった人に礼は言わないし、トイレを使うときに下水道をつくった人に礼は言わない。インフラを構築するということは、結果として提供することの規模感が日常性をはるかに越えていたり、そのシステムが漠としてつかみ難いために、直接の便益がつかみにくく、わかりにくい。そのくせ、サービスがなんらかの理由で破綻したり遅延しようものなら、徹底的に糾弾される。場合によっては社会の敵だとさえ言われかねない。かくも大変なことを担うのが土木屋なのだ。これでは割に合わないと考える若者が増えても少しもおかしくはない。

丹保氏はインタビューの最後でも、次のように土木屋を叱咤している。
エンジニアは自分が死ぬ思いでやらないといけない・・中略・・土木学会の会長も務めた廣井勇は、自分が設計した鉄道の橋を列車が渡るときに、ちゃんと渡ってくれるだろうかと、初めから終わりまで橋のたもとで震えていたといいます。それくらいの緊迫感と恐れを今のエンジニアは持っているのでしょうか。

命を刻むような努力を放棄しておいて、想定外などという甘ったれた言葉を弄するなということであろう。小生も技術屋の端くれとして、丹保氏のこの叱正をしっかり受けとめたい。

タグ:土木 建築
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