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データセンターは発電所だった (2) [読後の感想]

「クラウド化する世界」:ニコラス・G・カー:翔泳社を読んで
原著 "The Big Switch" by Nicholas G. Carr

著者は、「電力とコンピューティングには重要な類似点がある」と強調している。もちろん技術的にも事業モデルとしてもさまざまな違いがあることを認めながらも、その類似点を見落としがちだと指摘している。現在では電気があまりにたやすく壁のコンセントから使えるために“単純な”ユーティリティとみなされているが、最初からそうだったわけではない。電力の供給が始まったときには、それは制御しにくい予測不可能な力であり、すべてを変える力だった。電力を使うことそのものが高等な技術であり、今日のコンピュータシステムと同様に、企業は電力をどのようにどこへ使うかを徹底的に考えることが求められ、そのために組織や製造工程をすべて変更することもしばしばだった。電化するということは、個々の企業や産業全体にとって、広範で複雑な、途方にくれるような変化をもたらした。

経済レベルで比較すると、電力とコンピュータの類似はより鮮明だという。いずれも経済学で言う「汎用技術」なのだ。つまりあらゆる人々によってあらゆる目的に使用され、多くの機能を果たしている。鉄道の線路は列車を往復させてモノや人を運ぶことしかできないが、電力網を整備すれば、ありとあらゆることがその先で実現できる。水車も汎用技術なのだが、電力やコンピュータと決定的に異なるところがある。それは、場所にしばられること。つまり、規模のメリットを求めてどれだけ集中化しても遠方に送ることができない。ところが、電力とコンピューティングはいずれもネットワークを経由して遠方から供給することができる。場所に制限されないので、集中を高めて規模のメリットを最大に享受できる。

さらに著者は、現代の社会は電化が起きなければ出現しなかっただろうと述べ、中流階級の増加、学校教育の普及、大衆文化の隆盛、郊外への人口の移動、産業経済からサービス経済への移行... 発電所から供給される安価な電流がなければ、これら特徴のどれ一つとして生じなかった。これらの事象は、社会の永続的な特徴だと思いがちだが、幻想にすぎないとも言う。それらは時代のテクノロジーを反映した経済的取引の副産物であり、一時的な構造にすぎない。あのニューヨークの巨大な水車のように簡単に捨て去られてしまうのだとも。

ここまで著者の主張をならべてくると、この本があまたあるIT本とは大きくそのスタンスを異にしていることが明白である。電力とコンピューティングを並べることで、近代の産業がたどった激しい転換の歴史を認識し、そこから読み取れる人類の未来を冷徹に示していることがわかる。しかも、その未来は決して楽観主義に覆われた明るく単調な(著者に言わせれば電球の照明のような)ものではない。

著者はこの本の最後の部分を次のように締めくくっている。

「旧世代が世を去るにつれて、新技術が登場したときに失われた事物の記憶も失われ、獲得されたものの記憶だけが残るのだ。このようにして、進歩はその痕跡を覆い隠し、絶え間なく新たな幻想を生み出す... 我々がここにいるのは、我々の運命なのだという幻想を。」

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