SSブログ

時代が動く予感にこころときめく [雑誌記事]

高村薫氏:平成雑記帳第178回 “遠い日本から、エジプト国民の高揚を考えた。”(AERA2011年2月21日号)を読んで

デモが突然始まり最後にムバラクが退くまでの期間“エジプトの18日”という呼び方が定着しているわけではないが、この期間の日本のメディアは新聞もTVも一貫して冷淡な扱いに終始していた。高村氏が言うように「老いた先進国の人間がときに外国のデモや騒乱さえうとましく感じる」ことを、事情が十分につかめないいらだちも含めてそのまま態度に出ていたように思う。

今回のエジプトの事象は、30年に及ぶ独裁政治の避けられない終末としてこれから語られていくのだろうが、老獪な政治取引が介入する暇も与えなかった「疾走」とさえ言えるスピード感は間違いなく21世紀のものであったと言える。高村氏は「いまさらながらに私たちはものすごい時代に生きていると思う」と語っているが全く同感である。これをコントロール不能の危険な状況と見て、だから管理レベルを上げるしかないと考えるか、これがうまく操れたらその向こうではいったい何が起こせるだろうと考えるかで見えてくる未来は異なる。

タハリール広場を覆いつくす何万人何十万人もの人々。18日間、TVで流された映像を見続けていても、その継続するエネルギーの源が何処にあるのかまるでわからない。高村氏は「行動する力は不満や怒りだけでは生まれない。同時に先々への希望があって初めて身体が動く」とし、さらに「希望の最大の源泉は若さである」と述べている。

確かに、Facebookなどを駆使して運動を牽引していたのは、GoogleのWael Ghonim氏をはじめとするほぼ30歳前後の若い世代である。医者、弁護士などの高い教育を受けた若者が、欧米の良さと汚さの両面を知り、中東とエジプトが抱える深刻な問題を憂い、大きな変革を志す。先進国に利用され蚕食されるままにしてはいけないという若者の訴えが国を引っ張ろうとしている。まるで幕末から明治維新にかけての日本のようではないか。

「若者たちが変革を訴えて都市を埋めつくせば、女性や子どもや年寄りも何かしら高揚を感じ、時代が動く予感にこころがときめくだろう。」これから起きることを思うだけで、わくわくどきどきする、そんな「ときめき」がエジプトをひっくり返した。その後に輝くような未来があるかどうかは誰にもわからないが、国の“若さ”がこれからの困難を切り開いていくのではないか。そう期待したい。

日本の若い世代の政治的な運動は、60年安保から70年にかけて大きな流れを形成したが、運動のエネルギーが突然に内攻しそして一気に壊滅した。しかも消えただけでなく、運動への敗北感と無力感が社会全体を覆いつくし、問題の本質を突き詰めることすら忌避するような態度への傾斜が強まった。

“もう若くないさと君に言い訳したね”これは私が大学を出た時に流行っていた“『いちご白書』をもう一度”の一節だが、まさに当時の雰囲気はこのとおりだったように憶えている。こうして何かを捨てることで手に入れた日本の輝かしい成長は、この後ほぼ20年間続くのだが...

そして高村氏は最後に「日本人の苦しさは、高揚感のない老いた社会を生き続けることにある」と括っている。当たっているだけにここはつらい。しかし老いつつある国でも目指すべき未来の姿がしっかりと共感されれば、若い国とは違った種類の高揚を創り出すことができるはずだ。エジプトの高揚を理解できぬものと遠ざけたり、その国の若さをただうらやんでいても何も起こらない。そこから我々が何を学べるか、学んだものから何が日本で生み出せるのかを深く考えてみたい。とてつもない大きな変革が目の前で起きつつあるのだから。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

-

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。