SSブログ

原釜の船方たち [雑誌記事]

また、相馬市長からのメルマガ:7月11日号が届いた。震災からちょうど4ヶ月経過した報告だ。
まだまだ、大変な苦闘を続けているようだが、文面からは一定の落ち着きも感じられる。
以下は、その冒頭の部分だけを紹介する。

前略 御免下さいませ。 震災から早くも4カ月を経過し、被災された市民の皆様も、仮住まいながら仮設住宅をはじめとするそれぞれの独立住居に落ち着き、新たな生活を開始いたしております。今後は安全な地区での恒久的な住まいの建設、とりわけ独居老人世帯となった被災者の方々のための共助住宅(#1)をはじめとして、仮住まいから次のステージを提供できるよう努力してまいります。

そして、その相馬の原釜の話が今週号のAERA 2011.7.25に出ている。「津波がきたら沖へ出ろ」

原釜(福島県相馬市)の船方たちは、3月11日の地震後、先祖代々の言い伝えに従ってそれぞれの船の纜(ともづな)を解き、一斉に港を出て沖へ向かった。やがて襲って来た巨大な壁のような津波に船の舳先から突っ込み、巻き込まれず乗り切る技量を備えているかどうかがまさに一瞬で試された。沖へ一斉に向かった原釜の船団は、こうして大事な漁船を失うことなく津波をしのいだ。岩手や宮城の漁港に比べて、津波の到達に若干の余裕があったのかもしれないが、なにより「津波がきたら、沖へ出ろ」を愚直に守ったことと、集団としてのまとまりの力も大きかったのではないか。

しかし皮肉なことに、こうして守った漁船が足かせになっているという。福島の海は流出した放射性物質の影響で操業のめどが立っておらず、船は港に係留されたままで一円の稼ぎも生み出すことができないでいる。こうした状況に対して原釜出身でもある立谷秀清相馬市長は、「獲れた魚をきちんと検査して、市場に送り出せばいい。腹をくくった」と語り、さらに「仮設の岸壁に水道、電気、ポンプ、製氷、冷凍すべて整える。復旧予算の半分は市が持もつ。東京が買ってくれないなら、福島で食べようじゃないか。漁業は後継者不足が深刻だ。操業停止を長引かせて、相馬の漁業を殺すわけにはいきません」

被災した漁業の問題は、宮城でも岩手でも行政と漁業者の間の意見がなかなか擦り合わず時間を要しているようだ。水産業が抱えてきた様々な課題が一気に表面化しており、これを解きほぐすのは容易ではない。とくに、漁業権の問題は根が深いのではないか。そうでなければ、津波から船を守った原釜の船方たちがこうして困窮するはずもないのだから。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

-

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。