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かすかな希望 [雑誌記事]

「気休めの言葉」聴かせて;内田樹の大市民講座、AERA2011.9.12より

野田内閣の選択した「波風を立てない」最優先は、現在の日本に横溢している「息を潜めてじっとしているうちに、なんとかなるかもしれない」という「気分」すなわち「諦めとかすかな希望」をそのまま反映したものだと内田氏は述べる。

3.11の直後から轟々と巻き起こった国難論。そして抜本再編への根拠なき期待感や危機を逆手にとり積年の宿痾を一掃せんとの声が高まったが、やがて訪れた深い絶望感に日本国民はしだいに慣れつつある、という。システムの劣化があまりに進んでいたので、ラディカルな再編など望むべくもなかったのだとも言う。

それでも、今日も新聞には「成長戦略なしに財政再建はありえない」と書かれているが、成長戦略などありはしないことは誰でも知っており、記事を書いている本人すら信じてはいない。正直に書いてしまうと「ただひたすら貧乏になるだけ」ということになる。たぶんそうだとみな内心では思っているのだが、言うと角が立つので誰も言わないだけだ。このままでゆくと、日本は不可避的に貧しく活気のない国になる、と。

“「時間稼ぎ」をしている間に、何か思いがけない展開が外部から到来するかもしれない。そのわずかな期待のうちに日本人は生きている。だから、それまでの間はせめて「気休め」になる言葉を聴かせてほしいのだ。”

「気休めの言葉」など何の足しにもならないと突き放さずに、いまは厳しい風が止むのを待ち続けるしかないので、とりあえずは鎮静剤か精神安定剤を調合してもらうしかないということか。あるいは、誰もが安易に口にする「なにをいつまでぐだぐだやっているんだ」という呪詛を繰り返す愚を避けろというメタファーか。新しい内閣にこれだけは気づいて欲しいということだろうか。

内田氏の決め付けはいつも手厳しい。たしかに、いまの状況から目を背けるな、暗澹たる事実を正視することからしか未来は開けない。これはよい。うわついた理想だけを振りかざしていてもだめだというのもわからないではない。

しかし、「あきらめの大国:日本」などと他人事のように眺めていてもだめだ。社会のシステムを変えるのは、おそらくとてつもなく大きなエネルギーが必要だが、どんなに手間と時間がかかってもこれを成し遂げなければいけない。ネチネチと粘っこく変えていくしかないのだ。社会のシステムを時代に合わせて変革できなければ、未来に残りうる国家ではありえない。つらいがこれは認めなければならない。


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