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つねに慰む [講演を聞いて]

朝日復興フォーラム 2012年2月16日における講演「『被災者』から『震災経験者』になる日 公立志津川病院での東日本大震災の体験を通して:菅野武」を聞き、強く印象に残ったところを会場でのメモと「寄り添い支える」菅野武著、河北新報出版センターを参考にまとめたもの。大変に貴重な体験を聴くことができたことを感謝すると同時に,少しでも多くの人にこの事実と教訓が伝わるべきと考え、不要な感想は挟まず紹介したい。

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3.11のその時、志津川病院の内科医長であった菅野氏(31歳)は、いつものように回診を終えて二階の医局に戻ったところだった。午後2時46分大きな揺れに襲われ、壁際の本棚が倒れてその下敷きになったパソコンが火を噴いた。直後に停電となり、非常灯に変わった。揺れが収まったところで、3階4階の入院患者の様子を確認、スタッフにも患者にも怪我人はないことが確認。そのころ、町内の防災無線が大津波警報が発令されたことを繰り返し伝え始めていた。志津川病院は、1960年のチリ地震津波の際に2.8mの津波に襲われており、この経験からその倍の6mを想定して3階以上に非難することと、入院病棟も低層階ではなく3,4階のみとするなど対策を講じていた。

菅野氏は、地震動の激しさから従前の想定にこだわらず、少しでも上へ避難したほうがよいと考え、西館5階の会議室(隣接する東棟は4階建て)を目指し患者の搬送を開始した。病院には高齢で寝たきりや移動に介助が必要な入院患者が多く、自力で上階へ非難することができない人がほとんど。加えてエレベーターが地震で停止しており、搬送は車いすや担架に乗せ、あるいは背中におぶって人手ですべて行った。

15時28分、津波が町に到達。病院に到達してからわずか2分ほどで病院の周囲の家屋はほとんど流され、水位がさらに急速に上昇した。15時39分に最高水位に達し、病院の4階天井まで濁流に没した。遅れて搬送中だった患者やスタッフは呑みこまれ流された。目の前で多くの命が奪われた。その時、菅野氏は絶望感と無力感に打ちのめされ、悔しさで自らに怒りすら覚えたという。

津波が足元わずか数十㌢まで押し寄せる中で、菅野氏は死を覚悟し、普段は手術のためにはずしている結婚指輪を左手にはめた。もしもの時に家族が自分を見つけられるように。菅野氏の奥さんはそのとき妊娠中、しかも臨月で、三歳になる娘さんとともに出産準備のため、地震のほんの十日まえに仙台の実家に戻っており津波を免れていたのだ。

その後、津波はピークから三十分ほどかけて、徐々に水位を下げた。そのとき菅野氏は、「少し津波が引いてきたので、下の階に生きている人を探しに行こうと思う。もし良ければ一緒に来てくれる人はいませんか」とまわりにいたスタッフに声をかけた。「後悔したくない」という思いに突き動かされたのだという。まだ危険があるので「行かないほうがいい」という意見もあったし、それもまったく正しいとも思ったという。自分の意思で決めることで強制することではないとも。それでも菅野氏は数人のスタッフとともに動いた。4階のフロアに向かったのだ。

かつて見たこともない地獄がそこにあった。そのとき、生きている患者が見つかった。寝たきりでしかも天井まで水が来ている中でどうやって命を守ったのか。寝たきり患者はエアーマットを使うこともあるので浮きとなって救われたのか。他にもカーテンにしがみついて流されずにいた人やベッドに挟まれながら生きている人が見つかった。東西の四階病棟で、十人近く息のある人を見つけることができた。

こうして避難してきた五階は単なる会議室であり、医療資機材も医療用酸素もなにもない状況は一切改善してはいなかった。しかし資材がないからといってあきらめず、衣服の濡れている人は脱がし、図書室から持ってきたダンボールに寝たきりの患者を寝かせ、さらに窓からカーテンをはずして患者にかけ、保温に努めた。その夜は、周辺からの避難者を合わせた250人近くが、その五階で身を寄せ合って過ごした。

その中でできたことは、苦しみ嘆く人に寄り添い、支えることがほとんどだった。救えない悔しさは当然あるが、寄り添い支えることもそのとき与えられた大切な医師としての使命であったと菅野氏は振りかえる。

「時に癒し、しばしば支え、常に慰む」これは、米国で結核療養所を開いたエドワード・リビング・トルドー(1848-1915)の記念碑にフランス語で刻まれている言葉で、患者たちが感謝の気持ちを込めて捧げられたとされている。菅野氏は研修医を終え地域医療に取り組むようになったころにこの言葉に出会った。患者が医療に求めていることは、治すことばかりではなく、病や苦しみとの闘いを支え、慰めることも大切であることを医療の現場で知ったという。今回の津波で深い敗北感と無力感を突きつけられたが、治したいという気持ちは根底に持ちながら、目の前の困っている人を支え、慰めることの大切さを知っていたからこそ、「後悔したくない」と決意し、「普段の医療をしよう」と思ったという。

地震後の3月16日に生まれたお子さん(男子)の名前は「怜」。いかなる困難にも立ち向かう知恵という文字通りの意と、レイという読みに英語のray:暗闇を照らす一条の光線という意を重ねたという。

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菅野氏は、震災直後の医療支援活動中の3月末に米TIME誌の取材を受け、それがきっかけで4月21日に発表されたTIMEの「世界の100人:The 2011 TIME 100」に南相馬市長の桜井勝延氏とともに選ばれている。


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