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丸の内仲通りのテロ [読後の感想]

tokyo002.jpg「爆風」沖島信一郎、アルマット、2010年8月30日刊 を読んで

昭和49年(1974年)8月30日(金)午後0時45分、東京都千代田区丸の内仲通りで起きた、「東アジア反日武装戦線『狼』」と名乗る赤軍派による三菱重工ビル爆破事件。三菱重工の社員として事件に遭遇した著者のドキュメント・ドラマ。

爆破によって死者8名、重軽傷者385名を出した戦後最初で最大級の無差別テロ事件。すでに事件から38年が経過している。この事件については、爆破犯の行動を中心に追跡したレポートがほとんどであり、被害者側からの視点が欠落していることと、時間の経過とともに事件の風化が進んでいることが作品としてまとめるきっかけになったという。しかし一方では、被害を受けた当事者が周囲の人間関係を含めて記すには、35年を経ても依然として深刻なところもあり、沖島氏が三菱重工のグループから離れて5年を経た時点をギリギリのタイミングと考えたという。

作品は、実際に起きた爆弾テロを縦糸に、爆破で傷つきながらもビルの中に踏みとどまっていた社員の行動を横糸に織り込んだドキュメントドラマであり、ノンフィクションでも私小説でもない構成となっている。無差別テロという想定外の事実を記録として明確に残しておきたいということと、生命に関わるような非常時に表出した、昭和の人々のやさしさ、思いやり、強い連帯感を平成の今の時代にこそ示したいということがあるようだ。

それにしても、爆発時の描写はすさまじい。以下にその一部を引用するが、その場にいた者にしか描けない内容で、息を飲む。

 その瞬間、猪熊源一郎は、ドドーンという爆発音を、建物全体が突き上げられるような激しい揺れを感じた。九階建ての三菱重工ビルがぐらついた。
 猪熊は、本能的に床に身を伏せようとしたが、その反応よりも寸秒早く、重い爆風がジェット気流のような勢いで床に叩きつけられた。爆風は、部屋の壁にぶつかり、恐ろしい轟音を巻き起こして、ビルの中を振動して駆けめぐった。
 同時に、丸の内仲通りに面していた窓ガラスが粉々に砕け散り、砕けたガラスの鋭い破片が鋭利なナタのような大きさになって、午後の仕事に就こうとしていた社員に向って、猛烈な勢いで飛んできた。(中略)
 社員は皆、猛烈な爆風と鋭いガラスの破片や割れた蛍光灯の直撃を受けて、いっせいに床の上になぎ倒された。

時限装置の仕掛けられた爆発物は、ビル一階のフラワーポット脇に置かれており、爆発によって玄関ロビーが大破しただけでなく、建物内の他の階にいた多くの社員も負傷した。さらに、爆風は衝撃波となってビルに面した丸の内仲通りに吹き出し、通りに面したビル群のガラス窓を丸ビルから有楽町に向う200mの広い範囲で破壊し、そこから降り注いだガラス破片は多くの通行人に降り注いだ。

現在では、理由が宗教か政治かに関わらず、激しいテロは世界のどこかで毎日のように起きている。日本でも、1974年から翌75年にかけて三菱重工爆破事件に代表される過激派による爆弾テロが連続して起きたし、1995年にはオーム真理教による毒ガステロの記憶が新しいが、他の国と比べれば、テロが稀にしか起きない“平和な”国であるといってよい。昭和49年という、戦後復興を果たし、国全体が大きな成長過程にあった勢いのある時だからこそ、理不尽なテロに対しても整然と組織の力を発揮して事故処理にあたれたとも考えられる。

東日本大震災が起きてからの国や東電のオロオロとした対応を見る限り、もしも今、三菱重工爆破事件と同様のテロが起きてしまった場合、この本にあるような整然としたリスク対応はとても望めないのではないだろうか。最後に帯に記されている著者の一文を読んでその思いを強くした。

自分たちの傷をかえりみずに、重症の仲間を救おうと懸命に働いた同僚たちがいた。人間はそこまで人を思いやり、温かくなれるものなのだろうか。生と死が交錯するテロの現場に、そういう人人がいた時代があったということを書き残しておきたかった。

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