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無人称は無責任 [新聞記事]

シンポジウム スポーツを読む基調講演:「スポーツを書くということ」沢木耕太郎、日経朝刊2012.12.25より

ノンフィクション作家の沢木氏は多くのスポーツものの執筆で知られている。「敗れざるものたち」では円谷幸吉を「一瞬の夏」ではカシアス内藤を取り上げて注目されたが、それまではスポーツというテーマに対して長文のノンフィクションを受け入れるということが日本ではなかったらしい。スポーツライティングという新しいジャンルを日本に定着させたと言ってもよいのだろう。

その沢木氏が12月4日のシンポジウム「スポーツを読む」の基調講演でスポーツを書くとはどういうことかについて熱く語っている。

そこで、“この数年、僕は気になっていることがある。あるタイプの記事がスポーツ紙からあふれるように出てきた” と、氏は述べている。あるタイプとは、記事に人称がないこと。その例として、巨人の原監督のコメントの後に、「あくまでも正攻法。横綱相撲で日本ハムを倒す」とあったのだが、倒すのは誰なのか。監督がそう言ったのか、そこまでは言わなかったが話を面白くするために尾ひれをつけるとそうなるというのか、よくわからない。誰が言ったかは、あえてあいまいにして、含みを持たせているつもりかもしれないが、確かになにか気味の悪さが残る。

これを氏は、“無人称は、無責任でもある”と断じている。書いてあることに対する責任はどこに、誰にあるのかと追求している。確かに読むほうは分かったような気になるが、そこには何の根拠もないという。確かにそうだ、読後の気味悪さはこれであろう。談話に基づいて、記者が自らの意見を述べるのならはっきりとそう書くべきなのだが、なぜかそうはしない。あたかもあいまいにすることが美徳であるかのように。

摩擦を恐れる、あるいは自分の責任を回避することが無意識のうちに行われているのではないか。スポーツだけに限らない。読み手にも関係してくるのかもしれない。

この「読み手に関係する」というところはドキッとさせられる。記者の手になる記事は世相の反映であり、こうしたものしか書かないのは、実は世間が厳しいものを望んでおらず、あいまいをよしとしているのではないかという痛烈な指摘であろう。

自身の責任を明らかにして物語をつくるのは恐ろしいことだ。勇気が必要だ。最大限取材して、こういうことなんだろうと勇気を持って世界に向かって接線を1本投げかける。それがスポーツライティングであり、広くノンフィクションと言われている書き物だ。その覚悟はフリーランスのライターにも、記者にも持っていてほしいと僕は思う

ここまでくると、ことはスポーツを書くということに止まってはいない。なんらかの書き物を世に問うすべての人、つまり職業記者から、作家、エッセイスト、最近ではブロガーに対して、勇気と覚悟を持てと強く求めている。確かに、事実に基づいていても、いくつかの事実から一つのストーリーを紡ぎだすのは創造であり、それを公開するのは非難や攻撃を正面から受け止めるという覚悟があって初めてできることなので、恐ろしいと思えばこんな恐ろしいことはない。まず恐ろしさを回避しようとするような雰囲気が社会全体に蔓延しているのだとすれば、物書きにこそ真の勇気が欠かせないということになるだろう。

そしてその一方で、読む側は、誰が言っているのかよくわからないことや、誘導ともとれるような記事に対して、はっきりと拒絶の姿勢を示さなければならない。選挙で大衆の水準以上の候補者を選べないのと同じで、無反応無表情の読者には尖ったところのない「ぬるい」記事で十分ということになりかねないのだから。

ネット上で雑文を書き散らしてはいないか、結果として社会のぬるさに加担するまねをしてはいないか。そしてなによりも「ぬるい」生き方をしてはいないか、もういちど自分を見直すきっかけにしなければ。


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