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お八重ばあちゃんのリヤカー [手紙を読んで]

相馬市長立谷秀清メールマガジン 2011/08/08号 No.256より
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お八重ばあちゃんはよく働く人だった。近郊農家だから、リヤカーを引いて裏の畑で採れた野菜売りに出かけた。その荷台にちょこんと乗って、私が育った漁村の原釜とは違った町の風景を、恥ずかしいような気持ちで見ていた。ばあちゃんは話好きで、待っていてくれる商店街のお客さんとの世間話が止まらなかった。

8月8日付けの相馬市長のメルマガは、いつもの臨戦モードとは異なり、リヤカーに揺られる立谷少年の回想から始まる。避難所から仮設住宅へと移りつつある復興の進捗が、施策の重点がハードから地域コミュニケーションの成立といったソフトへと移りつつあることを感じさせる。市長は、相馬という地域が無縁社会という言葉で表わされる大都会とは異なり、もともと「人びとの絆という点では、集落のコミュニケーションが豊かな地域社会だった」とし、集落単位で指定した避難所では諍いもなく、思いやりと励ましあいが支えてくれていると高く評価している。

市としては、「出身自治体を問わず、仮設住宅からの立ち上がりを迎える日が来るまで、1,500戸の方々全体を一体として、均等にサービスを展開したいと考えている。例えば健康維持については負担金なしで一般健診を全員に受けてもらいたい。また買い物支援や孤独死防止なども、全体に網をかけての配慮が必要だ。」とこれからの行き届いた丁寧な支援を続ける意思を表明している。

ここで、市長のリヤカーが登場する。ゆっくりと街の中を移動するリヤカーには、欠かせない食料や日常の必需品を乗せているとともに、復興する地域のコミュニティを昔ながらのリヤカーが担うのだ。

この点について、冒頭書いた私の子どもの頃の記憶で恐縮だが、リヤカー引きの戸別販売を考えてみた。16か所出来る集会所にそれぞれ一人の割合で、リヤカー引き販売員を行政支援員として臨時雇用して、仮設住宅の一棟一棟の間を通って訪問販売をする。雇用対策も兼ねるので一日8時間週5日勤務とするが、販売以外の時間は障害者の方々へ、たとえば洗濯などの生活支援をしてもらう。

募集したところ、お八重ばあちゃんのような話し好きな浜の女性たちが集まってくれた。小さかった私が乗った鉄と板で出来たリヤカーを相馬市いっぱい探したが、もう何処の農家にもなく、スタイリッシュなステンレス製折りたたみ式となった。始めて一カ月になるが、最初の計画とは違い二人ひと組で廻っている。その方が会話が弾んでいいのかも知れない。

クラシックな姿のリヤカーは手に入れられなかったようだが、現代のお八重ばあちゃんがみつかり、みごとにその役割を果たしてくれているという。今日も真夏の相馬の街を、リヤカーがゆっくりゆっくりと進んでいるのだろう。

リヤカー行商を紹介した毎日新聞(7月25日)の記事はここ


相馬の子どもたちに [手紙を読んで]

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6月6日号の福島県相馬の立谷市長メルマガが届いた。先日天皇陛下が初めて福島県を訪ねられた(5月11日:写真は市のHPより)とき、相馬市の避難所で説明にあたっている市長の姿をTVで少しだけみることができた。元気そうだったが、体は大丈夫だろうか。今回のメルマガ、相変わらず被災の戦場で全力疾走の様子が伺えるが、フォーカスは被災地の子どもたち。深刻な体験を経た後の心のケアにどう取り組むべきかなど、子どもたちへの長期的な支援の仕組み作りを着々と前に進めている。よけいな注釈は不要。走りながら戦う市長の声に耳を傾けよう。

(以下メルマガより一部を引用する)

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 私が本心では、今回の震災の甚大な被害を受け止め切れていないように、悪魔のような津波に追われた子どもたちも、恐怖体験から抜け出せないでいる。加えて家族や友達を亡くした虚脱感が、本来あかるく多感であるべき子どもたちの感性をむしばんでいるのだ。学校が再開した4月18日以降、対策会議のたびに教育長から被災小中学校の様子を報告してもらっているが、PTSDはやはり深刻である。

 対応策として臨床心理士によるケアを考え「相馬フォロアーチーム」を結成し、きめ細やかな心のケアを始めたのが4月の末だったが、開始後からその仕事量の大さへの対応と継続性をどのように確保するかが課題だった。対象は幼稚園から高校生までだから、一人ひとりじっくりとケアをして成長の記録をとどめて、さらに最長15年経過を追うとしたら、人材と財源を長期的にマネジメントしなければならない。

 6月2日、この活動を理念と継続性と、透明性をもって着実に行っていく目的で、NPOとしての設立総会を行った。理事長には相馬市教育委員の山田耕一郎先生が、副理事長には立教大学教授で「難民を助ける会」理事長の長有紀枝先生が就任された。その他、相馬市内の有識者の方々と、福島から近藤菜々子弁護士が理事になられた。法人格を持つことによって相馬市としても支援しやすくなるし、寄付も集めやすくなる。何より目的と予算執行の間に客観的な検証を加えることが出来る。被災した子どもたちへの支援を長期間しっかりと継続するとともに、彼らの成長過程でアドバイザーになってもらえればとも考えている。

消防法被を着けて [手紙を読んで]

相馬市長のメールマガジン4月4日号よりところどころ引用しました(青字)。
http://www.city.soma.fukushima.jp/0311_jishin/melma/20110404_melma.html

あの時に、家族を振り切って避難誘導に向かった団員たちのご遺体が、次々と消防法被姿で発見されるなか、長らく行方不明だった稲山分団長が無言の帰還を果たした。とても責任感の強い人だったから、最後まで住民避難に走り回ったのだろう。私に、郷土を想って殉職した怨霊の一分でものり移ってくれと念じ、クローゼットにあった消防法被を着けて執務することにした。

3月24日号の「ろう城」に続く立谷市長のメルマガである。相馬市は福島原発の強い影響範囲(と言われている)の少し北にあるため、例えば隣接する南相馬市よりは幾分か救われているところももあるのだろうが、地震から数週間、長期戦に入っている被災地で、地域の先頭に立つリーダーの生の声、悩みや苦しみがダイレクトに聞こえてくる。

災害対策は中期計画に入ってきた。短期対応は「救命」と「衣食住」だが、中期的な重点課題は「医職住育」。今回の相馬の場合「備える」を加えて「医職住育備」となる。災害発生から今日まで、救命と捜索、ライフライン、初期医療体制の確保、また原発騒動もあり困難だった食糧・物資獲得や放射能不安対応に専心した。領域が広範にわたる捜索はまだまだ続くが、ここに来て中期的な課題が急務となってきている。

医が最初に置いてあるところがいかにも医者でもある立谷市長らしい。この腹の据わりようはどうだ。東京から発言する多くの人たち(政治家を含む)の軽々しさと比べて、この重さはいったいどこからくるのだろう。人に興味があるか、モノに興味があるかの違いのような気もするが...

「医」はライフラインそのものだということも、また総合産業だということも今回わかった。災害医療だけでも膨大な経験をしたが、まだ最終的な医療体制を構築していないので、地域全体の将来設計も含めて今後慎重な議論が必要である。気が遠くなるほど道のりは遠いが、いずれまとめて報告したい。

立谷氏の自治体の首長としてのこうした経験が、やがて国を救うレベルに高く昇華してくれればと願うのは私だけだろうか。

今や物流はほぼ回復したが、基本的な食糧の備蓄は進めている。現在米は市民一人あたり4キロ、水は4リットルを備蓄した。味噌と梅干しも相当量集まったが、現在も貯蓄中である。前回のメルマガで、「米と梅干しと味噌さえあればろう城できる」と書いたが、十日たった今は多くの店がオープンした。呼び水になったのはローソン。新浪社長とはこの件ではじめて知り合ったが、お互い意気投合して相馬店の再開方法を何度も話し合った。積極的で企画力にあふれる彼が、ついに相馬店をオープンさせてくれた時は暗闇に明かりが灯る思いだった。

ローソンの新浪社長とのエピソードについては、いつかぜひ聞かせて欲しい。

中期的な課題解決は、同時に相馬市の将来像や相馬地方全体の復興ビジョンを視野に入れた長期計画の始まりでもある。この戦いがいつまで続くか計り知れないが、まだ始まったばかりであることは間違いない。

なお、相馬市を支援に訪れた小田原市加藤憲一市長の被災地レポートがここにある。市長のメルマガには出てこない、市長のド迫力が伝わってくる。その冒頭の部分を以下に引用する。

立谷市長は来客や打ち合わせが途切れないようで、忙しそうにしておられた。お元気そうで安心した。消防団の法被をまとわれ、陣頭指揮に当たっておられる。市長室の卓上には、和紙の巻紙と筆・硯。様々な礼状や依頼文を、筆で和紙にその場でしたためておられる。

いつまで続くかわからない長期戦、まさにエンドレス・ウォーがこれから、いやもう始まっている。がんばれ市長。

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