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神戸の震災から16年で変わったものは [気がついた]

“自然が荒れ狂うときには抗うことを諦め、頭を垂れ、膝を屈して、そしてそこから自分たちの生活をどう築いていくか、・・・何千年もの間、作り上げられてきた表情があの穏やかさなのだと思うに至りました。” 山折哲雄、AERA4月4日号より

1995年1月17日午前5時46分に神戸で大きな地震が起きてから、16年が経過した。そしてこの3月11日14時46分に巨大な地震と津波が発生し、北東北から南関東にいたる広範な場所で未曾有の災害をもたらした。地震の規模も桁違いだったが、同時に生じた津波の破壊力も激烈であり、こうした災害を見越し、それに備えるべく準備してきたものがほとんど一瞬にして意味を失った。自然が本来持っている力を、すべて解き放つと何が起きるかを人間に見せつけるために引き起こされたかのようにさえ思えた。

16年前、神戸の地震が起きたとき、神戸三宮の南に位置する人工島ポートアイランドに私は家族と住んでいた。なんの前触れもなく、早朝に震度7の地震に直撃された。上下左右に揺さぶられ、あたかも誰かの激しい怒りに巻き込まれたかのような感覚に襲われたことを今でも明瞭に記憶している。まさに頭を垂れて怒りの治まるのを待つしかないように感じた。

幸い住まいは破壊されなかったし家族も全員無事だったものの、主要なライフラインは寸断され、気がつけば被災者のひとりになっており、すぐに支援の給水車にポリタンクを手にして並ぶ生活が始まった。たしかにガスや上下水道などの復旧に時間はかかったが、日々の暮らしに不安の暗い影はなかった。やがて癒えることが予め約束された病にあるだけというような、明るい割り切りができていたように思う。そうした気持ちの有様が全体として復興のスピードを加速させたということもあったのではないか。その時に不安を抱かせないような情報の示し方や伝え方が十分に配慮されていたとは必ずしも思わないが、結果としてはうまくいったところが多かったのではないだろうか。

そうした心の安寧という面では、今回の震災は16年前と大きく様相を異にしているように感じる。被災の激烈さに加え原発の見えない恐怖が重なり合っていることもあるだろうが、いつまでも不安を払拭できないいらだちがずっと続いている。伝えられる情報を全面的に信頼できないから不安を解消できないという悪循環にはまって抜け出せない。あらゆる情報が不安のフィルターで色づけられ流通し増幅され続けている。その一方で職場を放り出して脱出する外国人を嘲笑っていたら、外国からはいつまでも逃げ出さない薄気味悪い国民とみなされるつつあるらしい。ほんとに大丈夫か日本人、というところだろう。

16年前のあの時、手に入れることのできる情報は、報道については新聞や雑誌などの印刷媒体と、テレビやラジオによる放送媒体がほとんどすべてだった。一方で通信手段として個人をつなぐ電話も有効な情報入手手段であったが、携帯電話は存在はしていたものの高価でレンタルでしか入手できず、企業利用もされてはいたが一般の市民の手に広く届くのはさらに先だった。インターネットもまだ一般には広まっておらず、その先駆となるパソコン通信だけが草の根的に広がっており、メールと掲示板の仕組みが新しい情報交流の始まりとして評価されつつあった。しかしそれも極めて限定的であり、利用者がようやく全人口の2%を越えたかどうかという状況だった。

神戸の地震が原因ではなかったのだろうが、携帯電話もインターネットもそこを起点にして急速に拡大した。気がつけばほとんどの国民が携帯を持ち、いつでもどこでも通話できるだけでなく、インターネットというインフラ上でメールやニュース閲覧といった豊富なサービスをきわめて低廉な価格で享受できるようになっている。家庭でのインターネット利用も通信インフラのブロードバンド化に牽引されて広く普及してきた。その結果として情報の流通も形を変えてきた。最初は付加的なサービスでしかなかった情報提供が、いつかレガシーなメディアに代替しうるものに成長し変貌しつつある。

インターネットという新しいインフラに乗った情報の流通と伝播は、確実な未来なのだが、旧体制との混在をしばらく続けざるをえない条件付の未来でもある。新聞雑誌などの報道もテレビなどの放送も、これまで形成してきた枠組み(企業組織と人)が大きすぎて、単純に新しいデジタルの仕組みには転換できない。しかも、情報を受け取るユーザーである一般市民にとってもアナログからの脱却は決して容易ではない。年齢や地域に関わらず、可能ならば今の仕組みを維持してほしいという意見が、おそらく多数を占めるだろう。毎朝起きればテレビのスイッチを入れてニュースショーを見たいし、ポストに入っている新聞も眺めたいのだ。

アナログからデジタルに代われば、情報の選択や整理が容易になるし、なによりソーシャルネットワークの普及でお仕着せでない情報にも接することができることや、逆に意見を投げ返したりできることも魅力だ。しかし、そのために情報リテラシーを上げていくのは決してたやすくはない。子供の頃から携帯を使いこなしている若い世代のようには変われないし、開き直って、変わらなくてもいいやというのが、アナログ世代の正直な意見ではないだろうか。これはデジタルデバイドそのもので、情報リテラシーを上げられないために、ソーシャル化する情報の流れからは徐々に取り残されていくことになる。

今回の震災は、情報伝達が越えるべき高いハードルがいまここに存在することをはっきりと示したといえるのではないか。だとすると、しばらくは情報の伝達仲介といった世代間をつなぐ機能を社会的にしっかり担保しないと、人と人とのつながりや結びつきが壊れていってしまう。また、視点を変えて言うと、この機能をうまくデザインすれば新しいビジネスを生み出すきっかけになるかもしれない。レガシーなものを切り捨てて進むのではなく、社会のシステムを編みなおす努力が求められていると思う。転換期に生じるギャップに目を閉じるのではなく、そこから新しい地平を切り開いていくことができる機会が到来したのだと考えたい。

Earthling 2011 での櫻井智明さんとのトークはここにあります。 ほんとうの震災を知ろうーわたしたちにできること 2011年4月2日13時より



手のひらを太陽に [気がついた]

「ソーラークッカーを震災避難所の熱源に」

写真.JPG3月11日午後2時46分。東北から関東北部の太平洋岸地域が巨大な地震に襲われた。その規模と破壊エネルギーは、事前の想定をはるかに越えるもので、日本の歴史上でもおそらく最大級。1923年の関東大震災より1桁以上大きく、1995年の阪神大震災より2桁もしかすると3桁大きいかもしれない。そして、地震とその直後に生じた津波で被ったダメージの深刻さは、世界的にも例の少ない最悪レベルのもので、先進国ではどこも経験したことのない状況が突然に現実のものとなった。

これだけでも十二分に過酷なのに、さらに福島第一原子力発電所の事故に襲われており、震災の後は復旧そして復興へと進みたいのだが、気持ちも体制も一気に切りかえられない苦しい状況が続いている。

現在、被災地では7県で44万人を越える避難者が一時的な避難場所に身を置いているが、どこも必要な支援と物資が足りず、3月中旬になってもまだ気温の上がらない気象条件下で劣悪な環境を凌ぐことが難しい状況が続いている。電気が通っていない場所が多いため、暖房も照明もない。暖房器具も不足しているが、なにより燃料が決定的に足りない。避難所には、徐々に食糧などの支援物資が届くようになるのだろうが、いまできることはないのだろうか。

そこで、提案。 「避難所でソーラークッカーを使い、必要な熱源としよう」
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ソーラークッカーはあまり知られていないが、太陽熱温水器と同様に太陽の光を反射板で集光し発生させた熱で調理を行う器具に与えられた総称。原理は極めて単純でルーペで黒い紙を燃やすのと変わらない。レンズと反射板の違いがあるだけ。

アフリカなどの途上国では、主に調理のために薪を燃料とすることが依然として多く、慢性的な薪不足と森林破壊を生じている。また、薪の多量使用による深刻な大気汚染をもたらしている。こうした悪循環を少しでも緩和させるための方法論の一つとしてソーラークッカーの普及が進められており、各国のNGOなどがこれに取り組み、既に20年以上の実績を重ねつつある。中でもダンボール製の簡易なパネル型のソーラークッカーは安価で大量に配布できることからさまざまなものが製作・販売もされている。また、欧米ではソーラークッカー関連の営利・非営利団体を統率する Solar Cookers International(SCI)などの団体が国際的な活動を展開している。そのCooKit(パネル製のクッカー)も導入数の多さで良く知られている。

ソーラークッカーの種類は形状から集光型、熱箱型、パネル型などに分けられるが、簡易な構造でありながら、そこそこの性能を発揮するパネル型が被災地の避難所には向いている。ダンボールの表面にアルミ箔を貼り付けるだけで反射板になるので、なにより材料の調達と加工の難しさがない。またこの道具では、調理に必要な85度以上を容易に確保できる一方で、原理的に燃焼事故を起こすほどの高温にはなりえないなど、安全面での利点もある。またペットボトルに水を入れれば湯たんぽ代わりに暖めることも可能であり、補助の熱源としても価値が大きい。とはいえ、製作スキル(小学生の夏休み宿題程度?)と危険回避のための操作教育をこなせるスタッフが必要なので、避難所にボランティアが入るまでは導入は容易ではないかもしれない。

画像は足利工業大学で研究開発され市販もされているソーラークッカー。晴れていれば1時間で500mlの水を沸騰させられる能力を持つすぐれもの。実は、足工大の研究室から1台拝借して真冬に実験したところ、間違いなくお米をおいしく炊くことができた。とてもダンボール製とは信じられない力を発揮する。これは避難所で有効に使えると思う。ただし、市販のソーラークッカーは、簡易なパネル型でも、おそらく在庫を大量に持っているわけではないので、配布は難しいように思われる。それより、手作りでもそこそこの性能は期待できるので、材料を調達して製作してはどうだろうか。あるいは、組み立て前の段階まで作ったものを避難所に送るという方法もあるかもしれない。なにせ、ダンボール製で畳んで送ることができるので、救援物資の邪魔になることもあまりないだろう。問題は受け入れ態勢とのマッチングだ。そこをうまくつなげられれば大きい助っ人になるのだが。

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東北大はそんなにすごい [気がついた]

どこの学校を出ているかで助けられた、という話はよく聞く。慶應の三田会と言えばその代表だ、著名な大学のブランド価値は大きいらしい。その効用を否定する人にはなかなかお目にかからない。でも自分の場合には、自虐的に言う訳ではないが、そうした「いい」思いをした記憶がほとんど、ない(高校は別だが)。それはお前の不徳の致すところだし、交友範囲拡大努力が単に足りないだけだろう、と厳しくつっこまれそうだが、そうかなあ、本当にそれだけなのかなあとずっと感じていた。

そこにたまたま東北大学の同窓会(萩友会)の関東支部総会に参加する機会を得た。大学を出て以来35年。始めてこうした催し物に参加した。今までもこうした催事はあったのだろうが、出ておかなければと意識したことはない。出不精でもなく、もちろん無視していたわけでもない。出たことがないのにえらそうなことは言えないが、会としての魅力、参加したいと思わせる仕掛けなどに足りないところがなかったか。おそらく、仙台ではこうした催し物が以前から淡々と継続・維持されているが、遠隔地である東京での活動が相対的にはやや低調だったということかもしれない。

同窓会という、身内だが当事者ではない、いわばサポーターでしかない勢力を、本体の活性化に貢献させたいという発想は、大学の内部に閉じがちなネットワークを社会に広げたい、そのことで大学としての価値を向上させ、さらに優れた人材を呼び込みたいという意図の現れであろう。であるとするならば、これまでの東北大の同窓会活動はやや狭小に留まりがちだったのではないか。三田会のキャッチに「慶應に入学してよかったと思うのは大学を卒業してからかもしれません」とある。

萩友会総会と同時に行われた講演会で大学の概況を聞くことができた。東北大は「世界リーディング・ユニバーシティ」を掲げてその目標に邁進しており、例えば朝日新聞社の「大学ランキング2011年版」によれば、全国の高校の進路指導者による総合評価で6年連続の日本1位、また「進学して伸びた」評価でも4年続けて日本1位など、既に高い評価を積み重ねつつあるらしい。たしかにこれはすごい。しかし、これまでは”クチベタ”が災いし、過小評価されてきたとも認めている。東京、大阪、京都から遠いこともハンディだったとしている。

「研究第一」「門戸開放」「実学尊重」という建学以来の理念ががっちり堅持され、さらに進化しているというのも納得できる。が、しかしだ。研究を社会に直接結びつけ、埋め込んで、日本をどうやって元気にするのか、ここがもうひとつよく見えない。大学が事業の領域にまで自ら踏み込むことで、時代の新しい役割を果たせないか。クチベタでアピールがへただからなどと、できない理由を並べている場合ではない。産業との橋渡しに止まらず、さらに事業をいかに組み立て自ら進めるかというテーマに軸足を移すべき時宜がまさにいまなのではないか。


タグ:同窓会

パティシエを目指す若者たち [気がついた]

住んでいる街の再開発が進んできている。いつのまにか、高層マンションが何本も立ち上がり、睥睨される多くの民の一人になってしまったことに結構カチンときているが、その話題はまた別の機会にするとして、今回はその再開発のために生じた変化とその中での発見について記したい。

大規模な再開発はマンション群とそれに関連するビル群の整備を含んでおり、周辺の道路も全面的に付け替えられつつある。ある日突然に(通知を見逃しているだけだが)通勤路が大きく変わっていて驚くことが続いている。そうしたプロセスの結果なのだろうが、このごろ駅までの通勤路で今まですれ違ったことのない人たちと出会うようになった。

実は私の住まいの近くには、都内でも有数のお菓子の専門学校がある。最近建て増し(しかも複数)をしているくらいだから、学校としての人気も高いのではないか。食文化の充実という時流に合っているのだろうか。駅まで約10分の道で数人づつのグループと連続的に狭い歩道ですれ違う。登校のピーク時間帯と私の出勤時間がほぼ合っているらしい。

気づいたのは、すれ違う時に聞こえてくる彼ら(女性の比率がかなり高い)の会話のほとんどが日本語ではなく、中国語と韓国語であること。日本人の学生がいないということではない(だろう)が、その多くは寡黙なのだろうか。大きな声ではつらつとしゃべっているのはほとんどが日本人ではない。

あるネット上の就職相談コーナーでパティシエ志望の人に対する回答として、「友人が朝一から夜遅くまで働いて給料が10万もいかないと求人広告を見てなげいていました。思っているよりもキツイ仕事で給料も低く大変らしい」という書き込みがあり、他の情報などでも働く時間も長くキツイという意見が多くみられる。パティシエという華やかなイメージと現実のギャップが大きいということかもしれない。

しかし、あのはつらつとしたアジアの留学生の様子はどうだ。1学年200人ほどの学生の何割を彼らが占めているかはわからないが、彼ら留学生はやがて彼らの母国でも食に関わる仕事に大きなスポットライトがあたることを信じ、その中で自分の輝く未来を夢見ているのだろう。このままでは、日本の誇る食文化の担い手も日本人ではなくなってしまうのではないか。

これは、ハーバードを中心とする欧米の有名大学を日本人の学生がほとんど志望しなくなってしまったという事態の完全な裏返しである。外へ出てチャレンジするのもいやだ、かといってキツイ仕事につきたくはない。そこそこの暮らしさえできればいいのではないか。若者がこうした発想に陥っている責任の大半はその親の世代にある。私自身の背負うべき問題の一つをまたつきつけられた。

タグ:教育 留学
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