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ネット接続の深い穴に落ちて [気がついた]

the_abyss_by_alexiuss-d5im6xf.jpg「パソコンを何回もクリックして、いつまで何やってんの」、家人から冷たく言い放たれてしまった。壁際のネット機器の前に座り込んで、ぶつぶつ言いながらなにやら繰り返し繰り返している姿を見て、ついにボケが来たかと思ったのではないか。これは、新種の徘徊か、いわゆるテクノボケかと。

自宅の無線LANが遠くの部屋でどうしてもうまく受信できないので、配置を少しだけ変えてみようと日曜の午後にふと思い立った。ついでにモデムやらルーターのごちゃごちゃ配線もすっきりとまとめて、ほこりも払って。おお、かなり美しい、と(勝手に)喜びつつ、さて受信感度はどうかなとiPadを開いた。あれ?Wifiの強度はいいのに、ネットにつながらない。あわててLenovoを開いてWindowsで試みるが、やはりネットはだめ。こんなこと初めてだが...

自宅のネット環境は、長い間シンプルそのもので、NTTのフレッツとプロバイダはso-netという組み合わせ。これに市販の無線LANルーターをつなぎ、室内どこでも利用できるようにして使い込んできた。ところが今年になって、ふと「ひかり電話」の導入に思い至り、2月から新たに「ひかり電話ルーター」が壁際の機器群に加わっていた。

ひかり電話ルーターの取説を開いて、トラブル対応を探ったが、なにせこの新参者とは付き合いが薄く、さっぱりわからない。しかしいろいろ調べていると、ネットとの常時接続が切れているだけではなく、「電話」もつながっていないことがわかった。確かに受話器を持ち上げても「ツー」という音が聞こえない。あ、これはマズイ。大変なことを、やっちっまった、かも。ところが、休日でサービス窓口は開いていない。ということで、翌日の朝を待つことに...

月曜の朝にさっそくサービス窓口に連絡したところ、実は昨日に同じマンション内のひかり電話利用者から不通の連絡があり、おそらく集合装置のトラブルと思われるので、既に修理点検の手配をしているとのこと。え?トラブルの原因は、ここではなく外だったのか。で、普通はこれで通信が回復してめでたしめでたしとなるのだが、なかなかそうはならず、深いトホホが待っていたのだ。

たしかに、ひかり電話はその日のうちに復旧した。よしよしと、PCをつなぐと、あれ?やっぱりつながらない。いろいろやってもダメなので、またサービス窓口に連絡。指示に従って設定をしていくと、フレッツのPPP接続はちゃんとできることがわかった。ところが、プロバイダとの接続ができない。さらに症状を見ていくと、どうやらアクセス認証ではじかれているらしい。ここでの結論は、プロバイダから提供されている接続用のIDとパスワードを準備して設定しなおすということだった。ああ、なるほどそういうことか。でも、接続用IDって、記憶にないけど...ずいぶん前にネットの接続を開始する時に、設定し入力したんだろうが、憶えていない。よく使っているIDとパスワードは何種類かあるが、組み合わせを総当りすればなんとかなるかも、と迂闊にも考えてしまった。ここで、さっさと諦めてプロバイダに問い合わせれば良いのに。 (-_-;; (汗 とはこのこと。

ここから長い迷い道にはまりこんでしまった。これを傍で見ていれば、確かに新手のボケが出たと思うかもしれない。まったく、あーあ、である。さすがに窮して、こんどはso-netのサービス窓口に藁をもつかむ思いで連絡。ほとんど同じステップを確認して、結論は同じように接続IDとパスワードらしいということ。ここから違ったのは、IDとパスワードはすぐにハガキで郵送してくれることになったこと。おお、これでようやく地上に出られる!(ジタバタせずに最初からそうしてれば...)

というわけで、結果的にネットの世界へ戻ることができた(戻らないほうが幸せだったかも)。決してテクノ・ボケではなかったと主張したいのだが、よく考えると、泥沼にはまりこんでうだうだと打開策を講じないというのは、本人が気づいていないだけで、徘徊とあまり変わらないのでは。これが深淵なボケの入り口なのかも...

静かに走ろう [気がついた]

IMG_0485.JPGIMG_0486.JPG電柱に「静かに走ろう」というポスター状の幕が取り付けられている。文字は小さくはないが、色も控えめなためか、目立たない。世田谷の住宅街の中を通る小道の脇にひっそりと掲げてある。最初は、なんのことか分からなかった。この近くに大学の総合運動場があるので、ランニング練習中の体育サークルの掛け声がうるさいというクレームなのか、それにしても... 2枚目の写真は、ポスターから20mほど進んだところで逆方向を見たところ。道の狭さがよくわかる。

最初にこのポスターを見つけたのは、休日の午前中。人通りも少なく、もちろんランニングやジョギングする人も見えない。車もほとんど通らない。ここを静かに走れというのは誰に対してなのだろう。この疑問が解けたのは、数日後の平日の早朝のことである。

朝の6時半ころ、まだ日が昇りきっていない冬の朝に、同じ場所に通りかかった。前に来たときと様子が違う。静かな早朝の住宅街という雰囲気はない。せまい路を、次から次に車が通り過ぎていく。しかも、かなりのスピードで走りぬけていくため、走行音が高い。表通りから離れた場所になぜこんな車の流れがあるのか。数分間そこに立ち止まって様子を眺めたが、流れは途切れない。流れの源を辿って見ると、ここを通るすべての車が、10mほど手前の狭い路地から湧き出てくる。路地から出て左折し、10mほど走ったところで小さな公園の端を回りこんで右折し、ポスターの貼ってある路へ突っ込んでくる。どの車も通り慣れているようで、左折右折が連続するS字運転でもスピードはほとんど落とさない。しかも、よく見ると走っているのは、ほとんどが業務用車両で、運転しているのも作業服か背広を身につけている人が多い。つまり、これは仕事車の出勤時ラッシュということらしい。ここは、通り抜け道なのだ。

湧き出し口の先はどうなっているのか。車が走り抜けるため人の通る余地がほとんどない路地の先は、多摩川の堤防に沿って長く続く狭い道だった。なぜこの川沿いの狭い一本道に車が流れ込むのか。この地区は、多摩川と野川に挟まれた細長い形状をした住宅街で、そのほぼ中央を走る幹線路は、幅員がないことから歩行者を守るために一方通行にせざるをえなかったのだろうが、その逆を走る車はより狭い通りを、それこそ縫うように走るしかないのだ。

このような朝夕の抜け道は、仕事上手の知恵ということで、誉められることはあっても止められることはないのだろうが、これでは生活者の安全も安心もあったものではない。こんなに見え見えで危ない抜け道には、なんらかの手を講じるべきではないか。ポスターも良いが、「静かに走ろう」ではこれを警告と受け止める運転者は一人もいないだろう、町内会の気休めと言っては言いすぎか。注意喚起にすらならないアリバイ作りは、そろそろ止めにしたらどうか。

交通安全の観点から、警察に行っても、区役所に行っても、道路改良が必要なことはわかっているが調整に手間と時間を要しており、すぐには解決策はないという答えが返ってくる。もうそろそろ、困ったら行政に駆け込むというパターンだけに頼るのはやめにしよう。同じような問題を抱える地域では、どんな解決策を模索しているのか、住民が自分の問題として動き出さないと解決は見えてこない。

たとえば、関西では抜け道を使う車を警察官が止め、免許証を提示させた上で「地元の人じゃないね。抜け道に使わないでもらえませんか?地元の人が非常に困ってます」という例があるらしい。住民の怒りが警察を動かしたケースだ。世田谷でもときどき見かけるが、路面に凸凹突起などの緩やかな障害物を設けたり、一方通行路の要所に車幅ぎりぎりのポールを立てるなど、もっと本気の嫌がらせ策(ドライバーに気づいてもらうため)は最低限必要だと思うのだが。

運転者が仕事の知恵と言うのならば、生活者の知恵を絞ることも必要だ。とにかく生命が係っているのだから。



夜明け前が一番暗い [気がついた]

1月も下旬になり暦通りに厳しい寒さが続いている。しかも今年の冬は例年になく気合いが入っているようで、暮れに冷え込みが始まってから、ほとんどゆるみがない。すっかり心の底までたるんでしまった日本人を、寒気が鞭打っているかのようだ。それにしても、寒い。東京で14日に降った雪が日陰にはまだたくさん溶けずに残っている。

冬至は暮れに終わっているので、普通に考えれば、そこから一日一日と日が伸びているはずで、1ヶ月も経てば、確かに心もち日が長くなったようにも感じる。暦で確かめると、この1ヶ月で35分も日没が遅くなっている。そういえば、暮れには午後4時を過ぎると、もう夕闇が近づいていた。いまは、4時なら日はまだ高い。輝きは弱々しいが、春は遠くないよと訴えているようだ。

しかし、その一方で、朝の様子は変わっておらず、春などどこの国の話だと言いたくなってしまう状況なのだ。というのも、毎朝6時に起きて歩き回るという習慣を持ってしまったがために、気がついた。6時に起きてみると、まだ真っ暗、星さえ残っているという状態がなかなか元に戻らない。さすがに、暮れのころよりは少しは明るくなってはきたが、日の出が遅い、依然として7時ころにならないと富士の山に日が当たり始めない。夕刻のころの日が長くなり始めているいう感じと大きくかい離しているように思う。

なんとも釈然としないので、日の出日の入りを暦で追いかけてみた。
昨年の12月1日の日の出は 6時32分、日の入りは 16時28分
今年の1月1日の日の出は 6時50分、日の入りは 16時38分
そして2月1日の日の出は 6時42分、日の入は 17時07分

この冬の2か月で、日没は確実に日が長くなって40分も遅くなっているのに、日出は少しも早くなっていない。日出と日没の時間の推移は、全く非対称になっているのだ。特に、日出は冬至から1ケ月以上経過しても、目立っては早くならない。12月から1月いっぱい、遅い夜明けが深い鍋の底のように続くのだ。

詳しい説明はここでは省くが、これは北半球の高緯度地帯に特有のことで、南半球では生じない。この不可思議な偏りが生じる理由は二つあり、その一つは地球の自転軸が公転面から23.5度傾いていること、もう一つは地球の太陽を回る軌道が正円ではなく楕円であることによる。特に、地球が太陽に最も近づく時が、暮れの押しつまる頃で、冬至の少し後というのが、北半球の暗く長い冬を創りだしているということは、実はあまり知られていない。(興味のある方は、「アナレンマ」で検索されることをお勧めする)

まあ、そんなわかりにくい話は置いておいても、この寒さいつまで続くのか。その答えを早く知りたいものだが。




浦戸からの便り [気がついた]

牡蠣サイズ.JPG松島湾の入り口に位置する浦戸の島々では、かき貝やのりの養殖が盛んであったが、3.11の津波の直撃を受けて壊滅的な被害を被った。養殖の要となる海の施設や陸の加工場をほとんど失った状態からの再スタートになったが、浦戸の海産物は通信販売などで評価を高めてきており、リピーターも増えていた。あの浦戸の牡蠣をまた食べたいと願っている顧客に対しても復興の支援を広く求めることで復興の加速をはかろうというプロジェクトが震災後4月に立ち上がった。そのプロジェクトから次のような便りが届いたので紹介したい。

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支援者の皆様へ
時下益々(...)
さて、皆様のおかげをもちまして、浦戸地区の復旧も順調に進み、念願の牡蠣やのりの生産が可能になりました。島民一同に代わりまして深謝申し上げます。
この度、収穫されました牡蠣と海苔は、例年より大変美味しく皆様からご好評を得ており、我々も安堵いたしております。些少ではございますが、浦戸名産品をお送りさせていただきましたので、ご笑納賜れば幸甚でございます。
これからも支援者の皆様のご期待にお応えできますよう、島民一同力を合わせ頑張ってまいります。今後ともご指導、ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。(...)
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宅急便(チルド)で生牡蠣と海苔が突然届いた。なんの連絡も前触れもなかったため、心当たりもなく首をかしげながら通信文を開いたのだが、これはあの浦戸からのとてもすてきな吉報だった。浦戸の震災後の様子はNHK-TVなどでも取り上げられ、被害の詳細を見るたびに、浦戸で生産が再開されるのは早くて来年だろうと勝手に決めつけていたのだが、もう出荷できるまでになったとは。ささやかながら浦戸を支援している者の一人として、こんなにうれしいことはない。

それにしても、この牡蠣の大きさと豊潤なできはどうだ。松島の牡蠣といえば、どちらかというと小ぶりだが味は良いという思い込みがあったのだが、これは従来のものとはまったく別物のようなできだ。最近のニュースで、気仙沼でも例年の倍の成長が確認されているという話題があるようだが、津波が貝類にとってはなにかプラスの効果をもたらしているのかもしれない。自然の力と恵みに頭を垂れなければ...

安心への道は遠く [気がついた]

anshin.jpg東京から遠く離れた実家に80を過ぎた親を一人で残している。監視カメラを置くわけにもいかないし、どうしたものかと考えていたとき、auが携帯のGPS機能を使った位置確認サービス(「安心ナビ」というサービス)を行っていることを知った。これはよい!とさっそく飛びついたのが4年前のこと。実家に電話をしてもつかまらないときなどに、このしかけは大変有効であった。なにができるわけではないが、最低限の安心情報というか、いつも使うわけではないのだが、こころ(精神)の安定にも結構貢献してくれていた。

それがいつしかスマホの時代になってしまった。サービス範囲外に放り出されてしまう前に、という理屈をこねつつフライング気味でauのスマホに切り替えた。スマホってやっぱりいいね、というのはまあ当然なのだが、さて「安心ナビ」はどうしたらよかったのだろうということに気がついた。まさか、携帯にハード依存しているサービスだから、スマホではあきらめてくださいじゃないよね。と、びくびくしつつauのサイトを調べてみたら、なんとそのサービスがauのスマホでもできるようになったという。しかもそのサービスのカットオフが、この12月8日。おお、なんというラッキーというか、たまたまというか。でも、もしそうでなかったら、このサービス、あきらめるしかなかったのだろうか。

まあ、そうした反省はとりあえず置いておいて、さっそくアプリを導入しなければ。ということで、auのスマホのアプリサイトからダウンロード。これで登録してしまえば後は同じ。のはずだったのだが。ところが、ここから予想をはるかに越える苦難苦行の行進が始まることになる。

スマホを親機とすると、遠く離れた携帯は子機にあたる。親機のアプリを変更したことは子機は当然知らないので、変更のシグナルを送らないといけない。ここでしっかりつまづいてしまった。その手続きがうんともすんとも進まないのだ。しばらく繰り返してもらちがあかないので、実家に電話してああだこうだと指示をしてみたのだが、まったく前に進めない。こりゃだめだな。ということで、即宅急便で手許に送ってもらうことに。

1日おいて、手許に携帯が届いて、さあ仕切りなおし。でも、やはりうまくいかない。あれれ?わからないときは、auのサイトを見るしかない、ということでよく見直すと、携帯側のアプリをスマホ対応版にアップグレードしろとある。ああ、なるほど、それはそうかも。ということで、アップデートをしようとするが、なぜかできない。エラーが出るのではなく、まったくできない。これはおかしいとサイトをさらに読むと、アップグレードの前に携帯アップデートをしろとある。OSのバージョンを上げろということらしい。なるほど、スマホの登場などで対応すべき機能が追加されているので古いままではだめということか。

というわけで、OSのバージョンを上げ、しかるべき後にアプリをアップデートする。おお、ちゃんとできる。でも、あたりまえかも。とは言え、このプロセスを一般ユーザーにクリアさせるのは容易なことではないことも確かだ。これは普通に考えれば、auのサービスショップに行ってやってもらわないとできないレベルだと思う。

ここまで来て初めて、スマホからの登録ができることになり、見事に開通。いったんつながってしまえば、あとは子機の操作はいっさいなし。提供されるサービスの中身は携帯のときと大きくは変わらないのだが、スマホで画面が大きくなったことがこういう場所管理のアプリには大きくプラスに利いている。なかなか使い勝手もよいように感じた。スグレモノだと思う。

しかし、しかしだ。ここにいたるプロセスはいったい、もう少しなんとかできなかったか。ここまで煩雑だと、険しく遥かな道を進むうちに迷い道に踏み込むことも多々あるのではないかと余計な心配をしてしまう。そのために「安心ナビ」があるのです、などという冗談は聞きたくないのだが。





津波の心配はありません [気がついた]

この地震による津波の心配はありません

地震がどこかで起きたらしい、というのはTVの画面の上端に地震速報が表示されるからわかるのだが、いつからこんな仕組みが動いているのだろう。しかも緊急地震速報が出る時には、表示が出てしばらくして揺れに襲われることもある。あたかも地震の発生を先取りするような通知システムが動いている。これだけできれば地震予知なんてすぐじゃないのと思ってしまいそうなのだが。

この仕組みは2007年10月からTVなどを通じて一般に提供されるようになった。1995年の兵庫県南部地震(阪神淡路大震災を引き起こした)を一つの契機として、高精度でリアルタイムの観測情報を取得できる地震計の設置が進んだことで、先行して伝わる地震P波情報を解析することで震源や揺れの大きさなどを推定し、遅れて到達する地震S波による大きな揺れを少しでもかわす、机の下に潜り込むとか高速移動車のブレーキをかけるなど、ことを可能にした。3.11の際にも、東北新幹線を止めたのは、まさにこのシステムだ。地震の多い国でこうした非常事態回避システムを実運用しているのは日本だけだろう、というか発生頻度の少ないところでは投資効果が低くて宝の持ち腐れになるだけだが。

これはこれですごいのだが、TVの地震情報で「この地震による津波の心配はありません」というメッセージが加えられることが多い。安心させてくれるのはいいんだが、なんでそんなことが断定できるのかがわからない。思わず、あんたは全能の神かと言いたくもなる。実は、これは先に示した高精度地震計ネットワークが、複数の地点のP波情報を基にして震源の断層モデルを推定し、その場所・深さによって津波が生じるかどうかを計算している。もう少し正しく言うと、そのつど計算していては現在のコンピュータの能力ではさすがに間に合わないので、日本周辺で津波を起こしうる震源モデルを10万ケース近く事前に計算しその結果をデータベース化し、断層モデルから起きる津波の可能性をそこから瞬時に検索できるようにしてあるのだ。なるほど、この仕組みすごい。よく考えしかも実現したものだと思う。

しかし、しかしだ。こんなマジックのようなプロセスを知らない我々は、“心配はありません”と冷静に言われてもぜんぜん釈然としない。もう少し丁寧に、こういう理由で大丈夫だよと教えてはくれないものだろうか。あんたは、神のような能力があるから、断定できるのかもしれないが、こちとらはそれじゃなんにもわからないんだ。釈然としないならまだよいのだが、これを百回繰り返されると、津波の話しはいつもの単なる前振りの類かと頭が勝手に反応してスキップするようになってしまう。思考停止がそこで始まる。これはまずいよ、きっと。

ものすごい、というか到底思いもつかないような実時間システムを作るのは、たしかに日本人は得意なんだというのが、このことでもよくわかった。しかし、それを運用するときの配慮が足りないように感じる。配慮が足りないというより、これだけスゴイシステムなんだから使えない、あるいは上手に使わない方が悪いというような上から目線を感じてしまうのは、単なるひがみだろうか。津波がどんなときに起きるのか、あるいは起きないのかその理由を知ってもらう必要はないという決め付けがあるのではないか。揺れたら直ぐに高台に逃げろ、という教育啓蒙も大事だと思うが、津波知識を少しづつでも得ることも必要だ。とても大事なことなんだから、もう少し考えてはもらえないものだろうか。

泥水に沈む街 [気がついた]

220px-Thailand_Topography.pngタイの洪水が止まらない。チャオプラヤ川沿いにタイの北部から徐々に氾濫域が南下し、首都のバンコクにまでついに到達した。連日、TVでも他のニュースソースでもその深刻な状況を流し続けている。例えば読売新聞でも詳細を伝えているが、“大洪水による冠水が広がり被害が長期化しているのは、例年以上に多い降水量と、なだらかな地形のためだ”という説明だけで、この異常な事態、いつまでも好転せず、対策も講じられているかどうかもよくわからない、等等の疑問をすっきりと理解できるだろうか。

実は、いまタイで起こっている洪水の可能性については、世界銀行がアジア開発銀行(ADB)、国際協力機構(JICA)と共同で調査が行われており、ちょうど一年前(2010年10月22日)に報告書「アジア沿岸部の大都市における気候変動リスクと適応」として発表されていた。(世銀のプレスリリースはここ

この調査は、熱帯アジアの海岸に面する巨大都市の気候変動リスク(洪水など)評価を行うもので、ケースとして、バンコク、マニラ、ホーチミンの三都市を選んでいる。いずれも熱帯特有の暴風雨(台風、サイクロンなど)や集中豪雨、高潮の常襲地であり、海岸域の低平地(しかも河口に近い)都市が巨大化することでさらに災害リスクを増大させている場所である。

河口周辺に形成された沖積平地(デルタ)は、都市化の進展とともに地下水の過剰なくみ上げによる地盤沈下が進行するため、温暖化に伴う海面上昇や降雨増大などによる影響をより受けやすくなる。

チャオプラヤ川流域は、その総面積が16万k㎡と広大であり、タイ全土の35%を占めており、しかも極めて平坦で流域の平均標高は1~2mでしかなく、海岸に近いところでは、近年の地盤沈下のために海面下の地域さえ存在する。この流域では近年繰り返し洪水の被害を受けており(1942,1978,1980,1983,1995,1996,2002,2006年)、特に1995年の洪水では複数の熱帯性暴風雨によって上流に設けられた治水ダムの容量を越えたために下流域で広範な氾濫を生じ、12月まで水が退かなかったという。

タイでは、こうした洪水の頻発に対処するため、チャオプラヤ川の治水にこれまで力を入れてきたようだが、結果として、またしても甚大な洪水被害を起こしてしまった。手をつけるべき地域があまりにも広域で、しかもとんでもなく(日本では考えられない)平坦であることが最大の障害になっているということだろう。しかし、アジアの新興国としての発展はそうした対策の遅れを待ってはくれない。平坦な土地に産業が起こり、人が集中し、災害リスクが積み重なっていく。したがってこの洪水の発生は十分に予測できたものであり、決して想定外ではないと言ってよい。ダム制御や排水管理に問題があるという指摘もあるようだが、事象が進行中の現時点ではよくわからない。

世銀の報告書では、タイが取り組むべき課題として、地下水くみ上げ規制、洪水予測精度向上、河川堤防嵩上げ、排水ポンプ増設などをあげており、いずれもいま起きている洪水をすぐに食い止めることにはならないのだろうが、今後手を打たなければ間違いなくこの類の洪水は繰り返されるだろう。今回の洪水は、50年に一度の大雨が最大の原因となっているように伝えられているようだが、原因は相当に根が深いとみてよい。

調査研究がJICAの協力の下で進められたことからわかるように、こうした水災害対策は日本の最も得意とする分野である。おそらく水面下では、防災の専門家派遣など具体的な動きが出ているはずで、こうした局面で本領を発揮してもらいたい。

琵琶湖に津波が来たのか [気がついた]

namazu.jpg
また元暦二年のころ、おほなゐふること侍りき。そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。いはむや都のほとりには、在々所々堂舍廟塔、一つとして全からず。或はくづれ、或はたふれた(ぬイ)る間、塵灰立ちあがりて盛なる煙のごとし。地のふるひ家のやぶるゝ音、いかづちにことならず。家の中に居れば忽にうちひしげなむとす。はしり出づればまた地われさく。羽なければ空へもあがるべからず。龍ならねば雲にのぼらむこと難し。おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。「方丈記」鴨長明より

“行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。”で始まる鴨長明の方丈記、書かれたのは平安時代の末期で、武士が勃興し平家と源氏の争いがピークを迎えつつあったころ。時代のパラダイムが大きく変わろうとしているときに、多くの戦と重なるように生じた天変地異と災害の記述を多く含んでいる。長明は、先の見えない不安が都を覆う中で、京都の日野の山中に遁世したのだが、京都の災害記録としても(正確さはさておいても)価値が大きいとされている。

冒頭の引用は元暦の地震(1185年)を描いたもので、これはM7.4の内陸性の直下型のものとされており、京都近郊の多くの建築物が倒壊したようだ。注目すべきは、記述の中にある“海は傾きて、陸地をひたせり”という表現である。現在の京都府は北が日本海に面しているが、ここで記述されている「海」は日本海や大阪湾などの外海のことではなく、琵琶湖のことと考えられる。琵琶湖の湖岸で、津波に類似した現象が生じたと読み取るべきであろう。地震に伴う地殻変動で湖岸の平地が広域に地盤沈降し、水没したということかもしれない。しかし、内陸の湖でも、その湖岸で山体の崩壊が大規模に発生し、湖内への崩落が一気に生じれば水塊が形成され津波となって湖の広い範囲に伝播する。アラスカのリツヤ湾や長崎の雲仙岳で起きたような津波が、直下型の地震によって引き起こされた可能性はある。

一千年前に、しかも京都の山中に隠遁した人の記録なので、ほとんど伝聞をもとにまとめられているはずであり、すべてを事実として解釈すべきではないのだろうが、はなから「誇張に過ぎる」とか「あり得ない」と捨て去るのは止めなければならないだろう。地球上で生じるあらゆる種類の災害は、地球の長い歴史でみれば似たような現象の繰り返しに過ぎないはずだ。これは、地殻変動でも大気変動でも海水面変動でも変わらない。したがって「想定外」の災害ということはそもそもありえないのだから、災害に備えるには、これまでに生じた災害現象の履歴を詳細に知り、その特性を明らかにするという地道な方法しかないように思う。

日本の地震防災は、巨大地震が規則的に繰り返し生じることに着目し、その発生を確率の中で論ずることで危険の切迫を数量化し、これを指標としてさまざまな施策を講じてきた。このアプローチは、取り組むべき優先順位を明確にし、限られた予算と資源を的確に投入するための指標を示すには都合のよい考え方であったとは思うが、数字や場所に引きずられ過ぎて、それ以外のことが頭の中から抜け落ちてしまう危険もある。絞込みが過ぎて、かえって災害の本質を見失うようなこともあったのではないか。

京都を中心とする地域は、長く日本の政治と文化の中心であったことから、少なくとも千年、平安京からでも千二百年の記録が残されている。逆に考えれば、それ以外の地域では記録の密度がかなり疎になるかもしれないが、それでも千年に近い情報は存在しているはずなので、現代の防災の視点をもって改めて古文書を読み解けば、地域ごとの防災を考える際の重要な情報になるだろうし、地域での防災教育の材料としての訴求力も大きいだろう。

いつどこにどんな地震が起きるかは地の底に潜む大ナマズにしかわからない。そんなナマズと親しくなることはできないのだから、予知とか予測とかに力を入れるのを少し控えめにして、その分を地域に根ざした災害教育に振り向けてはどうだろう。

寺田寅彦の警告 [気がついた]

いま近藤宗平氏の「人は放射線になぜ弱いか:第三版」講談社を読んでいるのだが、その最初に「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい。」という寺田寅彦の引用(「小爆発二件」より)がある。

科学が果たさなければならない社会への役割を考えるとき、事実を正しく示し、伝えることがいかに容易ではないかという意味であろう。ありのままに伝えればよいとはよく言われるが、その事実をどう解釈すべきなのかという科学の視点が抜け落ちていれば発する言葉に何の力も生じないのだ。

それにしても、大正から昭和初期に活躍した寺田寅彦の言葉がこのところよく引用されているように感じる。例えば、AERAの震災特集号に宗教学者の山折哲雄氏が、寺田寅彦によって昭和10年に書かれた「日本人の自然観」から天然の無常観を身につけてきた日本人について考えを述べている。日本人の精神の深いところには、制御できない猛威をふるう自然にはあえて抗わないという諦念があるという主張である。

寺田寅彦は、1878年(明治11年)生まれ、物理学者であり、随筆家であり、俳人であった。熊本の第五高等学校時代に英語教師の夏目漱石に強く影響されたことが、物理学者としての優れた業績にさらに大きな広がりと深みをもたらしたとされており、科学と文学を調和させた随筆が多く残されている。特に1923年(大正12年)に起きた関東大震災については、調査にも深く関与し災害に関する研究業績も多数残しているが、調査研究を重ねながらその一方で、災害を多く抱える日本の特質に言及するさまざまな著述を残している。

優れた自然科学者であり文学者でもあった寅彦の目は、災害国日本の本質を常に見つめており、残された言葉の多くは現代の日本にも不思議なほど当てはまることが多い。寅彦の洞察が時代を超越していたというべきか、科学は進歩しているように見えても本質は何も変わっていないというべきか。寅彦の言を再読し、これまで科学で何がしかの禄を食んでいたと自認していた我が身を振り返ると、正直うつむかざるをえない。

以下に「天災と国防」(昭和九年十一月、経済往来)より一部を引用する。

文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである、災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのである。

今回の震災で指摘され繰り返し問われていることは、驚くべきことにほとんどここに記されている。地震、津波、台風、洪水と世界で最も過酷な条件のもとで永らえてきた日本という国の特殊性を、しっかりと見つめていかなければいけないということが今から70年以上前の賢人によって示されている。

そうして、寅彦は先人の知恵という部分について次のようにも述べている。

しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守して来た。それだからそうした経験に従って造られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。大震後横浜から鎌倉へかけて被害の状況を見学に行ったとき、かの地方の丘陵のふもとを縫う古い村家が存外平気で残っているのに、田んぼの中に発展した新開地の新式家屋がひどくめちゃめちゃに破壊されているのを見た時につくづくそういう事を考えさせられたのであったが、今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという話を聞いていっそうその感を深くしている次第である。やはり文明の力を買いかぶって自然を侮り過ぎた結果からそういうことになったのではないかと想像される。

この文章を読み、今回の震災を考えると、科学とはなんだったのだろうと自らを疑わざるをえない。暗黒から人間を解放し、明るい未来を必ず構築するために不可欠なものとして科学があったのではないか。新しいものが必ず旧いものを凌駕するという仮説が、自然を相手にした場合には、しばしば誤っていることを、結局はそのつど思い知るということなのだろうか。

 

松島を守った浦戸の再生プロジェクト [気がついた]

urato.jpg
5月7日の読売新聞に塩釜浦戸諸島の再生に一口オーナー制度を創設し、広く参加を呼びかけているという記事を見つけて、唐突にあの匂いの記憶が蘇った。

塩釜の水産加工場のきつい魚の匂いに包まれた艇庫に、練習のためほとんど毎週のように通っていた高校時代のことだ。艇庫から4人漕ぎのナックル艇を担ぎ出し、魚滓の漂う貞山堀をすり抜けて、港の石油タンクの立ち並ぶ広い水路へ乗り出す。そこが我らの練習場だ。桟橋とタンク群を横目にしながら、オールが水を掴んできしむ音だけを響かせ、水路を淡々と小型挺が進む。まめで手が硬く固まるほど、ひたすら漕ぎ続けていた高校時代を思い出した。浦戸の島々は、あの練習場のすぐ近くにあった。

宮城県の海岸部は、北の気仙沼から南の山元町に至る広い範囲で津波に襲われ大きな被害を生じた。その中で松島町と塩釜市は津波には襲われたものの、その周辺に比べれば津波の被害が少なかったとされている。理由はいくつかあるのだろうが、松島湾の入口に位置するたくさんの小島(浦戸諸島)が、壁となって津波のエネルギーを減衰させたことが大きかったのではないだろうか。すなわち、松島湾を襲う津波に対して有効な防波堤としてこれらの島々が機能したといえる。しかし、こうして津波を正面から受け止めた島々は、その代償として大きな被害を受けてしまった。島々では、離島であることも重なり復旧が遅れているようだ。電気もその他のライフラインも2ヶ月を経過してもまだまだ回復していない。

浦戸諸島は塩釜の南に突き出る七ヶ浜半島と鳴瀬川河口右岸にある宮戸島の間に位置しており、桂島、寒風沢島、野々島、朴島の四つの有人島と多数の小島より成る。島の主たる産業は漁業で、古くから牡蠣、ワカメ、海苔などの新鮮な海産物を近郊の市場へ届けている。この島の生活の基盤である、漁業と水産加工の施設が深刻な被害を受けている。特に島の周辺を利用した牡蠣棚が壊滅状態で、陸上部では海苔の乾燥機なども使用できない状況にあるという。こうした状況に対して、島の人たちは、支援を待っているだけはなく、自らの再生と復興を加速させるための方策を考え提案している。そのひとつが「一口オーナー制度」であり、その詳細はここにあるが、以下にその一部を引用する。

私たちは、行政・支援団体からの義援金や寄付金をただ待つばかりではなく、私たち漁業者自らの頭で考え、自らの手で操業再開の糸口を掴み、自らの足で歩んで行こうとする自助努力の一環として「うらと海の子再生プロジェクト」を立ち上げました。その目的は、何十年という長い年月を掛け揃えてきた漁業資材・設備等を失い、漁業を辞めざるをえない漁業者に一人でも多く漁業再開の道へと歩んでもらうことです。  操業再開の糸口として「うらと海の子一口オーナー制度」を設けました。一口1万円で皆様から支援金として募り、主に漁業資材の購入・漁業設備の修繕に充てさせて頂き、海産物が収穫できるようになり次第お送りさせて頂きます。お送りする海産物につきましては、殻付牡蠣もしくは剥き牡蠣・焼き海苔・ワカメ等を現在考えております。

浦戸では、牡蠣などの海産物の販売をオンラインで直販する仕組みを震災の前から運用していたこともあり、このオーナー制度への参加はオンライン上で簡単にできるようになっている。この販売サイトに紹介されているTwitterの履歴(@urato_uminoko)を読むと、オーナー制度の立ち上げと支援の拡大が4月の中旬から、徐々にしかし確実に拡大していることがよくわかるし、まだまだライフラインが不十分な状態でも、牡蠣棚の再生に向けて一歩一歩取り組んでいる様子が手に取るようにわかる。

いつまでに復興するとは約束はできないが、集められた支援をもとにして、とにかくがんばるのでずっと見守ってていてくれということだろう。これはこれで、わかりやすいし、繋がりを意識できる上手なやり方だと思う。見られているということが責任を負うことにもなるので、つらいともいえるが励みにもなるのではないか。

浦戸の島々の再生への挑戦は、今回の甚大な震災の中の小さな一つの試みかもしれないし、そこへの協力は全体からすれば限られた効果しかないのかもしれないが、なにより自分たちで考え歩き出そうとする気概がすばらしい。自らが支援を呼び込んでいくんだという強いこころに共鳴する。東北の海が、そして自然が以前の輝きを取り戻す日が一日でも早く来ることを願う。




うらと海の子再生プロジェクト


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