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代償は大きかったのか [新聞記事]

「電力制限令9日終了 大きかった節電の代償」日経朝刊、2011.9.8より

「代償」という言葉に代表されるように、日経は「節電強要、ひどいことを」という非難論を展開したいらしい。この方策(電気事業法第27条に基づく措置で500キロワット以上の大口需要家に対して発動、違反者には罰金も)の発動によって産業界は大きな打撃を受けたという。具体例として武田薬品をあげており、蓄電池や自家発電設備の新増設に50億円の投資を行うとある。また宮地鉄工所(大田区)では、鍛造機の一部を軽油で動くものに変えたためレンタル費用に加え毎月50万円の燃料費が嵩むという。

たしかにこれだけ読むと、政府が採った方策は中小企業をも含む国民いじめかと思わざるをえないところがある。しかし、本当にそうだろうか。

電力の使用が事業運営の要になっている事業者にとって、その安定供給は欠かせない要件であり、これが仮に不安定であれば事業継続に疑義があるということにもなりかねない。まさに企業にとっての命綱であろう。これまでは、世界で最も安定した電力供給を継続してくれる優れた電力事業者が全国に均等に配置されていたために、企業はどれだけ多くの電力を消費するとしても、なんの不安もなく中長期的な事業計画を編むことができた。しかし、3.11以降、永遠に続くと固く信じていた安定供給が、実ははかない幻想であったかもしれないと多くの事業者が気づいたのだ。

その結果が自前のエネルギー調達や備蓄につながったのだ。少しでも自らの事業の持続可能性を維持しようと考えるならば、将来に生じるかもしれないリスクはできるだけ適切に排除あるいは回避しようと考えるのは当然であろう。自前のエネルギー装置を準備しリスク回避に備えることを、あえて「大きかった代償」などとということばで表わすのは、視点がずれているように感じるし、違う方向に世論を誘導しようとしていると疑わざるをえない。

制限令が発効して起きたことは、電力事業者に支払っているエネルギー代金の一部を自前に置き換えてもよいという発想が自然に出てきたということだ。たしかに、電力供給専業者によるエネルギー提供に比べれば、効率的にも信頼性でも劣ることにはなるのだろうが、首までどっぷりと電力事業者に依存していることが企業の長期的な持続と発展にとって正しいのかということになる。生命線を安易に他人に委ねておいてよいのかという論点だ。これが国と国の関係であれば、天然ガスでのロシアとウクライナの交渉や上水道をめぐるマレイシアとシンガポールの関係など、一歩も譲らない厳しい争いは世界中に掃いて捨てるほどあるではないか。

3.11以降の世界では、エネルギー供給についての自社戦略を持てない事業者はその存在が極めて危うくなるものと考えられる。電気は空気と同じように、いつでも好きなだけ手に入れることができるというパラダイムでは、まったく残念なことに、もう先には進めないと覚悟すべきだろう。

しかし、無限エネルギーという幻想世界から一瞬にして有限の現実世界に引きずりおろされたのだから、原則は自己防衛とはいっても、そのすべてが自己責任でというのではたまらないところもある。制限環境に適切にあるいは先取りして対応した企業に対しては、税の減免(設備投資などへの)などの優遇措置を積極的にとるべきだと考える。このまま放置しておくと、またぞろ、お上の命令で歯を食いしばって努力し、それなりの成果をあげました、よかったよかったで終わりかねない。世界で最も優れた社会主義国日本などという自虐ネタはもう止めなければいけない。


人類やめますか [新聞記事]

8.15からの眼差し--震災5ヶ月-3-吉本隆明氏:日経朝刊2011年8月5日より

--事故によって原発廃絶論がでているが--という問いに対して

「原発をやめるという選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の原罪と考えて、科学者と現場のスタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防御装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です。」

吉本隆明氏、1924年生まれ86歳。戦後最大の知の巨人。1968年に出た「共同幻想論」を学生の時に読んだが、多くの友人たちと同じように半分くらいで挫折した。当時はとんでもなく難解だと感じた。もう近づくこともないだろうなと。

その後、1986年のチェルノブイリ事故の後に盛り上がった反原発運動に対して、「文明史に対する反動」だと強烈に批判を繰り返していたことだけはなんとなく憶えている。「反核が反原発に、そしてエコロジーに収斂するのは、ぞおっとするほど蒙昧だ」とまで言っているとは知らなかったが。それが、今朝のこのインタビューだ。「発達してしまった科学」を後戻りさせる選択はないと断言している。そこまで行き着いてしまったのは、人類の「原罪」なのだからと言う。反反原発の基本スタンスがぶれずに今も維持されている。これはこれですごい。このタイミングで吉本氏に取材した日経の意図を勘ぐってみたくもなるが、それは小人の妄想かも。

吉本氏が東京工大の電気化学科の出身だったということも初めて知った。理系の思想家だったのか。気を取り直して「共同幻想論」をまた読んでみようと思う。

しあわせ運べるように - 神戸から東北へ - [新聞記事]

ruminarie.jpg地震にも負けない 強い心をもって
亡くなった方々のぶんも 毎日を大切に生きてゆこう
傷ついた神戸を 元の姿にもどそう
支え合う心と明日への 希望を胸に
響きわたれぼくたちの歌 生まれ変わる神戸のまちに
届けたいわたしたちの歌 しあわせ運べるように

地震にも負けない 強い絆をつくり
亡くなった方々のぶんも 毎日を大切に生きてゆこう
傷ついた神戸を 元の姿にもどそう
やさしい春の光のような 未来を夢み
響きわたれぼくたちの歌 生まれ変わる神戸のまちに
届けたいわたしたちの歌 しあわせ運べるように
届けたいわたしたちの歌 しあわせ運べるように
「しあわせ運べるように」 作詞・作曲 臼井真

東京でこの曲を知っている人は少ないかもしれない。1995年1月17日の神戸の震災の直後に、当時神戸市立吾妻小学校の臼井先生が作詞作曲したもの。被災地では心打つ歌として早くからラジオや口コミで広がっており、音楽会などで少しづつ取り上げられるようになっていた。震災の年の暮れに、ルミナリエという神戸の夢のひかりプロジェクトで、神戸の復興を祈ろうという催しのオープニングに、港島小学校の生徒によってこの曲が歌われたことと、1月17日の追悼式で鎮魂の曲として歌われたことで、神戸以外でも知られるようになった。その後もルミナリエでは、港島小学校の生徒による合唱がオープニングで使われており、今では“ルミナリエの曲”としても知られるようになっている。

作者の臼井真さんは、その日も東灘の自宅にいたが、毎朝行っていた早朝練習のため二階に上がったところで地震に襲われ自宅の一階がぺちゃんこに崩壊したものの幸い無事であった。そして震災から二週間になろうとしていたとき、避難先の親類宅のテレビに三宮のビル解体の映像を目にした。初めて自分が育った三宮の様子を知り絶句した。胸が詰まり、たまらずそこら辺にあった紙と鉛筆を手にし走り書きした。歌が降ってきたという。

「みんなの思いを先生が曲にしてつくったんだよ」って、初めてこの曲を音とりをしたときに40人のこどもたちがピアノのまわりで、涙をこぼして歌ってくれました。そのときの姿を見たときに、自分の命が助かったのは、もしかしたらこの曲をつくるためだったのかもしれないなと思えた、清らかな瞬間でした。
2010年1月23日開催の神戸学校:臼井 真さん(市立明親小学校教諭)「歌に託した未来へのメッセージ」より引用

16年前に私の家族は、私の仕事の関係でたまたま神戸のポートアイランドに住んでいたために、地震の被災者でもあった。(といってもケガもなく食料にも不自由はしなかったのだが)そしてあの曲を早くから耳にし、いつか口ずさむようになっていた。音楽の力ってすごいなと思いながら。当時港島小学校の4年生だった娘は、その冬のルミナリエの点灯式の合唱隊にも入っており、今でも彼女の神戸での大きな思い出の一つになっているようだ。

その歌がこんどは東北の地にそして仙台にバトンタッチされている。昨日(7月28日)の読売新聞によれば、仙台市に支援に入っていた神戸市職員からこの歌のことが伝えられ拡がるきっかけになったとされ、また朝日新聞(7月11日)
によれば、仙台市立八軒中学の合唱部が交流のあった神戸市立玉津中学校から楽譜などが渡されたことによるとされている。おそらく複数のルートからこの歌が東北の各地に拡がっているというのが正しいのではないか。曲の詩は、神戸の地名が入っているので、東北に合わせて少し詩を変える(“神戸”が“ふるさと”に)ことで新しい生命を吹き込まれ、また強い絆を紡ぎながら歌い継がれることになったようだ。そしてこの「しあわせ運べるように」は、チャリティCDブックとなって発売される(7月25日)ことになった。

なお、八軒中学校によるこの曲はiTunesでも200円で購入することができる。

県が電力買取に反対する理由は [新聞記事]

菅首相が最後に通したい3つの法案の一つと言われている「再生エネルギー特別措置法案」、自然エネルギー由来の電力を長期間固定した価格で電力会社が買い取ることを定めるものだが、これに対して岐阜県が反対表明をおこなった。法案は3月に閣議決定を経てはいるが、国会での審議はまだこれからでさまざまな議論があることはおかしいことではない。議論は大いにあるべきだ。しかし...

最初にこれを報じたのは、中日新聞6月24日
自然エネ電力買い取り制度 岐阜県が反対表明へ
“自然エネルギー電力の買い取り制度に対し、岐阜県は近く、導入反対の姿勢を表明する。太陽光発電の買い取りには将来、火力発電の3倍のコストがかかると試算し、「電気料金に上乗せされ、国民に押し付けられる」と批判する。多くの自治体は導入を支持しており、議論を呼びそうだ。”

次いで岐阜新聞。6月25日版。
タイトルは、「太陽光発電コスト、火力の3倍 県試算、国民負担増を懸念
“県は24日、国が掲げる2030年度に1000万世帯で太陽光+発電パネルが導入された場合、火力発電と比べて約3倍のコスト増になるとの試算を、資源エネルギー庁に報告した。 -中略ー 「再生エネルギー特別措置法案」では、買い取り費用を電力料金に転嫁できるため、県は国民負担増の恐れがあると指摘。コスト増が自然エネルギー導入の妨げになるとの懸念も明記した。”

そして毎日新聞の岐阜版6月25日
再生可能エネルギー:買い取り制度 コスト高、県が疑問視「幅広い議論必要」
“固定価格買い取り制度について、県は24日、「長期的にみればかえって自然エネルギー導入の妨げになる」と疑問を投げかけた。県の試算では、太陽光発電は将来、火力発電の3倍のコストがかかる上、現行案では再生可能エネルギーによって安定的に電力を確保することは難しいという。”

24日に県の省エネ・新エネ推進会議があり、その場で県の試算結果を報告したという毎日の説明が事実説明としては正しそうで、岐阜新聞の言うように資源エネルギー庁へ試算結果を意見を添えて報告するというのは、会議の翌日の記事としては少しちがっているように思う。その点で、中日新聞は会議の前日に県が近く反対姿勢を表明と踏み込んだ言い方をしており、印象としてもかなり前のめりで攻撃的だ。

試算結果については、後で述べることにして、そもそもこの意見表明はなんのために、しかもなぜこのタイミングで行われたのだろうか。地元紙を中心とする報道の流れに違和感を感じざるをえない。自然エネルギーに好感触を示す他の多くの自治体と異なり、孤立しても政府に叛旗を翻す姿勢に喝采をおくっているつもりなのだろうか。毎日が、江崎経済労働部長の発言をひいて、「政府案では、自然エネルギーの悪いところばかりが強調されてしまう。幅広い議論が必要」と穏やかに扱っているのが印象的で、このあたりが県の正直な感覚なのではないか。

県の試算は、菅首相の全国で1000万世帯に太陽光のパネルを設置し、これに固定価格買取制度を導入して支援すれば、化石燃料依存のエネルギー社会へ舵をきれるというアイデアを負担コストに着目して評価したということらしいのだが、ここでなぜ全国区の議論をするのだろうか。岐阜県に独自のエネルギー政策があって、菅内閣が通そうとする法案とは正面からぶつかる部分があるので、再考を促したいというであれば、マクロな数値の議論など持ち出さず、地域特性を踏まえたエネルギーの議論に引きずり込めばよいのではないだろうか。

新聞によれば、コストが3倍にもなり、国民に多くの負担を求める施策はおかしいという主張らしい(議事録を見ていないので詳細は不明)。これに対して細かいことはいろいろあるのだが、ここでは次の3点に限定して反論をしておきたい。
1.エネルギー安全保障
2.国富の国外流出
3.化石燃料価格変動

1.については、石油であれ、石炭であれ、天然ガスであれ、資源が乏しいわが国ではエネルギーの自給は常に大きな課題であり、太陽光でも、風力でも、地熱でも自然由来のエネルギーは間違いなく国産であろう。
2.については、化石燃料の輸入に現在23兆円を要しており、これはすべて国富の海外流出になっている。消費量が増加していないにもかかわらず資源価格の上昇で流出が漸増し、GDPの5%にまで近づいているので、なんとか増加にブレーキをかけるべきだ。
3.試算の前提として、化石燃料(LNGらしいが)の価格が20年間安定していると置いているらしいのだが、そんな楽観的な想定でなぜよいのだろう、こういうのを我田引水というのでは。

節電のためにもっと情報を [新聞記事]

22日の電力需要.jpg夏至になって、突然のように東京にも夏がやってきた。

日経の記事(2011年6月23日朝刊)によれば、22日は館林市で36.5度を記録するなど、各地で猛暑日となった。東京電力管内で電力需要が4129万kWと3.11以降初めて4000万kWを超えた。電力需要の低い春を過ぎ、いよいよ夏の需要期に突入した。昨年の6月に最初に真夏日を迎えた16日のピークが4665万kWだったことと比べると、1割近く低い値となっており、東京電力は節電効果が出ているとの見方のようだ。

昨日の1時間ごとの気温と電力需要との推移をよくみると、気温が下がり始めた16時から17時に電力がピークに達しており、よく言われているような13時から15時の時間帯ではなかった。急に暑くなったとはいえ、節電の意識はかなり浸透していたと見られるので、まだまだ様子見的でおそるおそるの空調コントロールというような段階だったのではないだろうか。

大どころの事業所やオフィスが節電の鍵を握るという意見が多いようだが、現在行われている1時間ごとの需給バランス推移に加えて、より多くの情報をリアルタイムで流す仕組みを早急に整備してもらいたい。東京電力管内の需要家別(大口、小口事業者、家庭など)の需要状況をさらに地域別に分けて示すこと。それもできれば現在の1時間ごとをさらに細分して少なくとも15分ごとの情報が出せないだろうか。加えて、地域ごとの温度と湿度、風向・風速、そしてできれば日射量もあるとなおよい。こうした基本情報は、すべて東京電力にあるはずなので、そんなに無理な要求ではないはず。

これくらいの環境情報を電力の利用者にしっかり見せて、初めてダイナミックな節電行動がとれる。お仕着せでばりばりに管理したいのだろうが、まず主たる利用者である市民の頭の中に節電というプロジェクトに協働しているという意識を刷り込む(これまで真っ白だった)ことが一番大事なように思う。


仙台復興の魁としての野球定期戦 [新聞記事]

旧制中学時代から、仙台では一中と二中のあらゆる領域における対抗意識は熾烈を極めており、新制高校になりそれぞれが仙台一高と仙台二高と変わっても長く維持されてきた。スポーツ活動でも、勉学でも活動のすべてを勝ち負けに結びつけ、競い合うことで互いにさらなる高みを競うことを、意識してか気づかずかは別として続けてきた。男子校らしい、純朴ともいえる競い合いが、東北大学を擁する学都仙台のアカデミックな雰囲気に書生っぽい青臭さを添えていたともいえるかもしれない。

高校に入学して最初のカルチャーショックは、定期戦の応援練習をひたすらやらされることだった。校庭の東側の土手に新入生全員が集められ、とにかく大声を上げさせられる、拍手をいつまでも続けさせられる。そして応援歌を完全に覚えこむまで練習が終わらない。こんなことを覚えるために高校に入ったのだろうかと、首をかしげるほどの一生懸命さがなかなか理解できなかったことをいまでも思い出す。弊衣破帽の応援団幹部の理不尽さに最初は随分とまどったが、もっと驚いたのは、先輩である2年生3年生が加わったときの迫力のすごさ。神業のように一糸乱れぬ拍手と応援歌。わ、これってみんな本気なんだ、とそのとき初めて思い知る。

そういえば、ぼくらのころの定期戦は今の宮城野原ではなく、評定河原の野球場でやっていた。確か、東北大の施設だったと思うが、内野のフェンスが低く、とにかく応援の声がよく届く。内野手が目の前にいるような感じで迫力があった。試合をやっている連中からすれば、うるさくて冗談じゃないと言う環境だったかもしれないが...

その定期戦が震災の仙台で今年も欠けることなく催された。実は、学校でさえ地震で損壊を生じており生徒にも先生にも多くの被災者がいる。特に仙台一高で被害が大きく、野球部が利用しているグラウンドはあの荒浜にあった。ちょっと考えれば、少なくとも今年は定期戦どころではないというのが常識的な線ではないか。来年からまたしっかり復活させるので今年はすいませんと言えば誰も非を唱える人はいなかったのではないだろうか。それをみごとに両校の生徒、先生そして多くの関係者が打ち破った。

残念ながらこの震災と言う非常時に起きたこの快挙については、河北新報の事前記事(5月9日)と結果記事(5月15日)でしかわからない。おそらく仙台にいる人にはもっと多くの苦労や喜びが共有されているのだろうが、東京からではすべてを知ることはできない。通常は個人のブログといっても新聞の全文を掲載するのは避けているのだが、今回については一切の手をいれず利用させていただくことにした。

「伝統の一戦、復活の一歩に 仙台一高野球部14日定期戦」 2011年05月09日月曜日  仙台市宮城野区の日本製紙クリネックススタジアム宮城で14日行われる仙台一高・二高野球定期戦に向け、一高野球部員が奮い立っている。東日本大震災の津波により若林区荒井の練習グラウンドが使えなくなり、用具の一部も失った。大きな試練の中で迎える伝統の一戦。部員たちは「野球部復活への第一歩を飾りたい」と必勝を誓う。  一高野球部が使用してきた若林区荒井の第2運動場は、津波で壊滅的な被害を受けた。4月2、3日に部員と保護者、卒業生ら延べ200人が、がれき撤去などに当たった。バックネットの支柱の一部は根元で折れ曲がり、土の入れ替えも必要という。  バットやグラブは泥の中から捜し出し洗って使えるようにしたが、バッティングマシン2台と練習ボールは水に漬かり使えなくなってしまった。  練習は、他の運動部も使用する同区元茶畑の第1運動場で空きスペースを見つけて行っている。4月14、15、17日の3日間は、青葉区川内の二高グラウンドで合同練習を行った。3月まで二高を率いた谷藤正樹監督(現名取北高監督)が震災直後、練習球を一高に贈り、協力を申し出たのがきっかけだった。  ウオーミングアップからクールダウンまで、学校の垣根を越えて同じメニューで汗を流した。一高の建部淳監督と二高の佐藤貴志監督が、代わる代わるノックをした。  一高の本内大吉主将(3年)は「野球ができることに感謝している。定期戦は甲子園と同じぐらい価値がある。全力プレーが二高への恩返しにもなる」と意気込む。  二高の佐藤監督は「野球を愛する子ども同士、違和感なく練習ができた。試合では持てる力を十分出したい」と話す。  津波で名取市閖上の自宅を失った一高の阿部裕太遊撃手(3年)は「多くの人から勇気をもらってきた。試合では被災地を勇気づけるプレーをしたい」と張り切っている。

「戦後66回目の野球定期戦 仙台二高、逆転V」 2011年05月15日日曜日  仙台一高・仙台二高野球定期戦が14日、仙台市宮城野区の日本製紙クリネックススタジアム宮城で行われ、二高が3―2で逆転勝利、2年ぶりに優勝した。  両校合わせて6400人の生徒、OBらが詰め掛けた。東日本大震災で春の公式戦が中止になる中、戦後66回目となる伝統の一戦は盛り上がった。  二高は1―2の八回1死満塁から安田慎太郎捕手が2点適時打を放ち逆転。一高は五回以降、打線が散発2安打と振るわず、逃げ切れなかった。  一高は、地震と津波の被害で若林区荒井の練習グラウンドが使えなくなり、二高で合同練習も行った。  一高の本内大吉主将は「二高は全力でぶつかってきてくれた。練習環境は今も厳しいが、夏の勝利を目指す」と誓った。二高の柴田健吾主将は「最高の試合をして互いを高め合えた」と語った。  試合前、両校野球部OBが募金活動を行い、集まった37万2239円を一高野球部に贈った。  戦後の優勝回数は二高が29回、一高が28回、引き分け9回となった。通算成績は二高の69勝62敗2分け。 仙台一 001100000=2 仙台二 00100002×=3

浪分神社が教えるもの [新聞記事]

仙台で震災のことをいろいろ聞いた。まだまだ大変らしい。少しづつ状況が良くなってはいるが、いつまでこの緊張を維持できるか、誰にも答えられないという。街の中心街に人が戻りつつあるが、夕刻になると急に寂しさが繁華街を覆う。働く人の多くが家への足を早める。歓楽の声が聞こえるにはまだ仙台の街は暗い。桜がこんなに咲き誇っているのに。

若林区の霞目に「浪分け神社」があるという話しを友人に教えてもらった。はじめて聞いた、知らなかった。三陸の津波石と同じ、先人の警鐘碑であろう。河北新報の記事や、中日新聞の記事に詳しく紹介されている。しかも、これはさらに驚いたのだが、実は震災の2週間後に仙台に入り、若林区の津波の状況を歩いて見て回った際に、この神社へ立ち寄っていた。その時には、谷風の碑がこんなところにあるんだということしか記憶に残っていない。浪分け神社という名前も見たように思うがはっきりとはしていない。要するに、警鐘碑が仙台の街中にあるとは夢にも思っていなかったのだ。人の思い込みというのは恐ろしい、自らそのことを証明してしまったようだ。

21stones-articleLarge.jpg津波石と言えば、NewYorkTimesのこの記事でも紹介されていた。これは、岩手県宮古市の姉吉地区にあるもの。海岸線から離れた丘の中腹にある碑には、こう記されている。「ここより下に住まいを設けてはいけない」
つまり、津波はこの地点まで駆け上がってきたことがあるから、これを守らなければ地獄が待っているという警告である。3月11日の津波でも、姉吉でははこの伝承を守ってさらに高台に住んでいたため、津波の被害からは見事に免れたという。東北の三陸沿いの海岸には、こうした石碑が数多く残されているが、津波の来襲警告に加えて、住む場所にまで言及しているのはこの姉吉の津波石だけだそうだ。


猛暑が襲う街 [新聞記事]



この10年間がそれまでと比べてとにかく熱い夏だったということを否定する人は、おそらくいない。誰のせいかはともかく、世界中が暑くなってしまったのだ。そして日本の夏はというと、これもほとんど毎年のように猛暑に襲われている。埼玉の熊谷と岐阜県の多治見が2007年の8月16日に記録した40.9度というのが最高気温のようだが、多くの場合、最高気温の記録は内陸部で生じている。

そうした日本で最も暑い街の一つが、群馬県の館林市ということになっている。4年前に出た40.3度という気温もすごいが、昨年の夏に35度を超える日が41日もあったというのもすごい。日本は温帯に位置すると習ったのは間違いで、いつのまにか熱帯に宗旨替えしてたのではないかと疑ってしまう。しかし残念なことに、日本は冬の気温が低いので、どんなにがんばっても熱帯には入れてもらえないらしいのだが。

館林や熊谷、多治見などは、暑さにへばっているだけではなんの足しにもならないので、開き直って「日本一暑い街」を売りにしようとがんばっている。そんな背景のもと、震災による電力不足が表面化し、猛暑が健康を損ないかねない“災害”にまでなる危険も出てきたということで考えられたのが、猛暑対策のアイデア募集のようだ。そうした意味では、地域のおもしろい話でもなんでもなく、人命といった厳しい局面をも想定した切実な事情から出ていると捉えなければならない。

これから地域のさまざまなアイデアがたくさん出てくることを期待したいが、ここで対策の比重を置くべきは猛暑弱者となることが想定される人への配慮だと考える。高齢者とくに独居老人が地域のどこに生活拠点を持っており、猛暑時にはどのような行動をとるのか、これまで猛暑時に健康面での障害が生じた履歴はあるのか、等々押さえて起きたいことがらは多い。

しかし、そもそも関東平野の内陸の街が異常に暑くなった原因の一つは、巨大熱源としての東京の存在だという意見も多い。東京のマンハッタン化とともに、海っぺりに高さ数百メーターの“壁”が立ち並び、膨大な廃熱を垂れ流すとともに、海から吹いてくる南風を平然と遮断してしまう仕掛け作りがこの20年くらいで進行している。

地球全体が暑くなるのはとりあえずがまんするとしても、上積みの暑さを吐き出す東京の付けをなぜ内陸部が払わなければいけないのか。この議論は、質はかなり違うけれども、原発が東京から遠く離れた福島にあるという状況にとても似ているように思えてくる。だとしたら、解決のアイデアを捻り出さなければいけないのは東京人のほうではないだろうか。あるいは、出された知恵に対してお金で解決する役割を、他の誰でもない東京が果たすという選択もあるかもしれない。

いずれにせよ、猛暑がやってくるのはそんなに先のことではない。打つべき手を準備する時間は必ず必要なのだ。のんびりと、ようやく暖かくなってきたなどと季節の移り変わりを楽しんでいる余裕などないのだ。


ろう城の市長に伝えたい [新聞記事]



東京では、著名な日本法人の代表が先陣をきって海外に脱出したという噂が続いている。福島原発から220キロも離れた東京のことである。まあ、日本の従順なメディアと違って、米軍情報を拠り所にした海外の主要メディアが書き立てる放射線のリスクを少しでも知れば、ましてや幼い家族を伴っていればなおのこと、逃げ出したくなるのもありかもしれないし、それをことさらに言い立てるのもどうかなとも思う。それでも少しはくやしいので、#ohikitorikudasai とか#douzodouzo とかのタグをつけてつぶやいてみようかなと考えたりしていた。
 
そこにこの記事だ。実は、自分の実家の仙台は原発から100キロで、やばいかなあとここんとこ考えていた。それが相馬だ。半分、いやもっと近いだろう、40キロ位かも。相馬には親戚もいるが、なによりそこの市長はあの立谷秀清氏。彼は医大を出た医者で大きな病院の経営者でもある。医療の専門家として放射線の本当の怖さも熟知しているだろう。なにより避難者が2千人以上いる自治体の首長としてどんな振る舞いをすべきか、あるいは絶対にしてはいけないかを誰よりもよく知っている。それは振る舞いに出る。直接に近くで接しているわけではないが、先日もNHKの取材に答えている映像を見た。彼の重い声も聞いた。抱えている難題が何かはわからないが、とにかく腹が据わっていた。据わった顔をしていた。これなら大丈夫だと感じた。そこへこの記事だ。「俺たちは絶対逃げない」
 、
ここで逃げたら、相馬市はなくなってしまうと市長は机を叩く。そうは書いてないが、彼のことだ、きっと叩いたと思う。30キロが許容範囲で40キロはその外かもしれないなどという理屈はいらないのだ。市長はこの決意を市民に向けたメルマガで表明した。そのタイトルが「ろう城」だ。柴田勝家かお前はと突っ込むのは、この震災が思い出に変わってからにしようと思う。
 
我々仙台一高の同期の人間ができることはただ一つだ。まけるな立谷。がんばれ立谷。俺たち仲間がついてるぞ。これを心で繰り返すだけ。君の気持ちは必ず通じるよ。ろう城市長に乾杯だ。
 

サッカースタジアムに続くグリーン・ストリート [新聞記事]

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「鹿島のホームでよかった」吉田誠一、“フットボールの熱源”、日経朝刊2011.3.9、より

鹿島アントラーズのホーム、カシマ・サッカースタジアム(鹿嶋市神向寺)は、茨城県営の施設であり、鹿島FCが県から指定管理者に選任されてその管理を行っている。J1のクラブが、地方自治体が所有する競技場の管理運営をまかされているのは初めてのこと。2006年の4月から現在の形がとられ、今年で5年が経過、昨年の県議会で次の10年間の延長契約が認められている。これを受けて、運営する鹿島FCでは10年先を見据えた長期の計画を策定し、4月からいよいよ新しい運営がスタートする。

この計画では、競技場としての機能を維持・向上させていくだけではなく、スタジアムが地域と一体になって地域開発の核になっていく姿を打ち出すことで、スタジアムの収益性を高めていくことを大きなねらいとしている。

新しいスタジアムの目玉として、鹿島臨海鉄道の鹿島スタジアム駅から住友金属ゲート(第2ゲート)に向かう延長72mの通路に新たに屋根を設ける工事が現在進行している。ここは通路としてだけでなく、地元産の農産・水産物を販売する市場(マルシェ)としての機能を持たせる計画だ。ここでは年間100日の営業を目指すとともに、各種イベントにも活用し、ここから新しい地域の「にぎわい」を発信していこうとするもの。

通路の屋根には太陽光発電のパネルを多数設置してスタジアムの使用電力にも充てる点も、大規模な競技施設が環境への積極的な関与を示すものでこれも注目されるところ。また、使用する太陽光パネルは、あえて結晶型、薄膜型、非シリコン型の3種を併用し、各々の発電量を日々公開することで環境への関心を高めたいとのねらいもあるようだ。

このパネル設置については、地域グリーンニューディール基金から補助(環境省)を受けているとのことで、公営の施設である県立競技場のアドバンテージを最大に活用できているということでもあろう。こうした場所への公的支援は広い理解を得られるし、これをきっかけにより大きな成果が生み出されることを期待したいものだ。

この計画を進める鹿島FCの鈴木秀樹事業本部長は、「目指しているのは、この地域の価値を高めること。それが真の地域開発だと思う。住民に『ここに住んで良かった』『アントラーズがあって良かった』と思ってもらえるようにするのが我々の仕事」と語っている。まさに駅からスタジアムに通じる路はグリーン・ストリート、ここにカシマの哲学がある。

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