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ついて行きたいと思うのは [新聞記事]

390px-Futabayama_Sadaji.jpg「師の威厳体罰では保てず」チェンジアップ:豊田泰光、日本経済新聞1月31日を読んで

毎週木曜に掲載されている豊田泰光氏のスポーツ欄のコラム“チェンジアップ”。日経を買うのは、これを読むためというくらい毎回楽しみにしている。切り口がつねに鋭いし、誰にもおもねる所がなく、しかも上から目線ではないところは特に爽快である。

その豊田氏の体罰に関する意見。
偉い指導者は手を出す前に、存在によって弟子を畏怖させ、言うことを聞かすのだ。
ぐさっと刺さる。スポーツの指導者として、相撲の双葉山と野球の川上監督の二人を挙げ、いずれもその圧倒的な存在感で周囲がぴりぴりする雰囲気があったという。

そして次のように付け加えている。
川上さんは選手を飲みに連れ出して、子分にするという手法はとらなかった
さらに
飲んでおごって、人についてこさせようとするのは能力のない管理職がやることで、それは痛みによって選手を縛るのに通じるところがある

飲食で人を取り込むのは、腕力に頼る暴力となんら変わらないというこの指摘はすごい。人としての尊厳を奪い隷属させ支配することが目的であり、手段は暴力か酒かの違いしかない。

ちょっとおごってもらったくらいで「一生ついていきます」などという部下は必ず裏切る”とも一刀両断に切り捨てている。おそらく豊田氏も若い時代には、そうした苦い経験をいやというほど積んでいるのではないか。

そして最後にこうしめくくっている。
暴力による恐怖や酒席をベースとするような指導者と選手、上司と部下の関係は長続きしない。選手は力を伸ばしてもらい、それにより指導者はチームを勝たせる、といった実利のみで結ばれる師弟もあり、それはそれでまだ健全といえる。

言い回しは微妙だが、実利のみで結ばれる(ウェットな関係を持たない)師弟は、ほとんどいないということらしい。いても周りからは奇異な目でしかみられないのか、良い結果を出すことができないのか。いずれにしても日本という社会で才能を伸ばし成果を上げるには、この問題が避けて通れない。体罰の後ろにはとんでもない闇があるということか。





ロンドンの悪夢が60年の時を越えて [新聞記事]

_38553143_smog300pa.jpg今年の北京の冬は大変なことになっているらしい。

2月1日の日経朝刊でも「大気汚染、中国経済に波及 過去60年で最悪」というタイトルで深刻な状況を伝えている。原因は今年の冬が例年になく厳しく、石炭を用いた暖房に多く依存する中国では、どの都市でも真冬のこの時期は、強い風が吹かない限り、硫化物を多量に含む濃い霧に覆われ、昼なお暗き状態が続いている。中でも、人と産業が過度に集積する北京は症状が極めて深刻のようだ。昨年は、北京の米国大使館が独自に計測した大気汚染の値をTwitterで公表(@BeijingAir)し、中国政府とすったもんだをしていたのだが、もうそうした事実を隠すような余裕さえ消えうせ、企業の操業停止と減産を命じ、公用車の利用を大幅に減らすことを決め実行している。

これと同じような、そして信じられないほど深刻な結果を招いた現象が、今からほぼ60年前のロンドンで起きていた。1952年の12月のことである。

もともと、おそらくローマ時代のころから、ロンドンは霧深いことで広く知られていた。ごく最近まで、土産品として「ロンドンの霧」という缶詰が売られていたくらいなのだ。しかし、1952年の冬に起きたのはそんな情緒あふれるようなことではなかった。

12月5日にロンドンを包んだ濃い霧はそのまま4日間居座り、首都を完全に機能麻痺に追い込んだ。日中でも視界がほとんどないため、路上に車が捨て置かれ、汽車は破損し、空港は閉鎖された。硫酸ミストを体内に吸い込んだ多くの人が肺に疾患を生じ、実に1万2千人がそのために亡くなったとされている。これが、"The Great London Smog of 1952" として知られる英国の歴史的大惨事である。

当時は今のように報道が密ではなかったこともあって、ロンドンに住む人のほとんどが殺人霧の魔の手が次々に人々の命を奪っていることにしばらく気づかなかった。なにか様子がおかしいと人々が気づき始めたのは、棺桶を担いだ葬儀屋と花束を抱えた花屋があわただしく街を駆け回り始めたときであり、その時にはすでにロンドンの街は何もなすすべがない状況に陥っていたのだ。

この大惨事の原因は、現在の北京で起きていることと大きくは変わらない。厳しい冬が長く続き、暖房は燃料費の安い石炭に依存している。モータリゼーションや産業が一気に進展して、対策は常に後手を打っている。しかし、それにしても時代は60年以上進んでいる。まさか、あのときのロンドンと同じ惨事が繰り返されるとは到底思えない。近代的な気象観測体制と情報管理が危機を乗り越えるはずなのだが...

今年の冬の寒さは、いつもに増して厳しく長い。"The Great Beijing Smog 2013"、などという墓碑銘が立たねばよいのだが。


千葉から逃げ出したのか [新聞記事]


総務省が毎年公表している人口移動調査の結果が新聞などで取り上げられている。切り口のほとんどは、震災の影響が2年目に入ってどう変わったかにある。震災と原発の影響で当初は多くの転出が生じたものが、時間の経過とともに回復に転じているというものだ。地域によって差異はあるものの、そうした想定に近い数字がでているようにみえる。

ここで指摘したいのは、産経新聞1月28日の記事の中の東北ではなく「千葉県」の変化についての説明だ。
千葉県も2年連続で転出超過となったが、超過人数は前年(3935人)から4253人増えた。大震災の液状化現象で住居被害を受けた住民らが県外に出るケースが多いとみられる。
2年連続で転出超過となったというのは驚きだが、その理由が「液状化」で県外に出たというのは、どういう調査結果に基づいているのか示されてはいないが、にわかには信じがたい。確かに、浦安市の海岸部の一部で住居が著しい被害を被ったというのは衆知の事実だが、それが2年連続の減少、しかも県全体の数字として表れるとは考えにくいように思う。

実は、ほぼ1年前にも人口移動調査結果が公表され、同じように千葉県が転出超過に突然転落したと報じられていた。直後の報道では、原因は浦安市などの被災が引き金かとされていたが、千葉県ではこの事態を重く捉え、原因を究明することとなったらしい。その結果が昨年の8月に、「人口動態分析検討報告書:千葉県事項動態分析検討会議」として公表されている。震災の影響で千葉という地域のブランドに傷がついてはたまらないということであろう。調査は、転出が転入を越えた市町村の分布と、ここ数年の推移に注目したもので、結論は、「ネットでマイナスになったのは、転出が急増したからではなく、転入が減少したから」ということである。さらにわかり易く言うと、しばらく続いていた千葉への人口流入にややブレーキがかかったのであって、決して震災で逃げ出したのではないということになろう。

確かに、この説明を聞いてから総務省の新しい報告を少し詳しく見てみると、納得できるところが多い。例えば、過去3年の転出超過数上位20市町村というランクによると、平成22年では市川市が全国1位、23年では市川市(6位)、浦安市(8位)、松戸市(12位)、24年では市川市(1位)、松戸市(3位)、浦安市(6位)、我孫子市(11位)となっている。確かに震災でランク入りの市町村が増加はしたが、市川市はその前から首位だった。つまり、地震の前から転出超過は始まっていたのだ。さらにランク入りしている市町村は例外なく、東京との隣接域に位置する。東京の人口増が江戸川を越えて、東ににじみ出た地域である。若い世代向けの都市開発が急速に進んでいたものが、何かをきっかけに減速していたということなのだ。その何かには、都心での超高層マンションの大規模開発なども含まれるだろう。東に離れずとも住まいを確保できるという状況の変化が、新規の転入を鈍らせたのかもしれない。そして、それに震災が後押しをした、結果として転出超過を加速させたという理解が正しいように思える。

千葉県が傷ついたブランドを守るために主張している「逃げ出してはいない」というのは、なんとか認めるとしても、ネットで減少傾向にあるという事実は否定することはできない。東京という巨大な化け物の吸引力が、隣接する自治体に過剰に作用したのだ。それを正直に認めたうえで行政として何ができるか、今の時代での魅力ある街づくりとはなにかという問いに正面から応えていくべきであろう。

それにしても産経の記事はいただけない。少し調べておけば、「液状化で県外に出た」という表現にはならないはずだが、これでは完璧な憶測による風評記事ではないか。千葉県からクレームが来たらどうするつもりなのだろう。



夜明け前が一番暗い [気がついた]

1月も下旬になり暦通りに厳しい寒さが続いている。しかも今年の冬は例年になく気合いが入っているようで、暮れに冷え込みが始まってから、ほとんどゆるみがない。すっかり心の底までたるんでしまった日本人を、寒気が鞭打っているかのようだ。それにしても、寒い。東京で14日に降った雪が日陰にはまだたくさん溶けずに残っている。

冬至は暮れに終わっているので、普通に考えれば、そこから一日一日と日が伸びているはずで、1ヶ月も経てば、確かに心もち日が長くなったようにも感じる。暦で確かめると、この1ヶ月で35分も日没が遅くなっている。そういえば、暮れには午後4時を過ぎると、もう夕闇が近づいていた。いまは、4時なら日はまだ高い。輝きは弱々しいが、春は遠くないよと訴えているようだ。

しかし、その一方で、朝の様子は変わっておらず、春などどこの国の話だと言いたくなってしまう状況なのだ。というのも、毎朝6時に起きて歩き回るという習慣を持ってしまったがために、気がついた。6時に起きてみると、まだ真っ暗、星さえ残っているという状態がなかなか元に戻らない。さすがに、暮れのころよりは少しは明るくなってはきたが、日の出が遅い、依然として7時ころにならないと富士の山に日が当たり始めない。夕刻のころの日が長くなり始めているいう感じと大きくかい離しているように思う。

なんとも釈然としないので、日の出日の入りを暦で追いかけてみた。
昨年の12月1日の日の出は 6時32分、日の入りは 16時28分
今年の1月1日の日の出は 6時50分、日の入りは 16時38分
そして2月1日の日の出は 6時42分、日の入は 17時07分

この冬の2か月で、日没は確実に日が長くなって40分も遅くなっているのに、日出は少しも早くなっていない。日出と日没の時間の推移は、全く非対称になっているのだ。特に、日出は冬至から1ケ月以上経過しても、目立っては早くならない。12月から1月いっぱい、遅い夜明けが深い鍋の底のように続くのだ。

詳しい説明はここでは省くが、これは北半球の高緯度地帯に特有のことで、南半球では生じない。この不可思議な偏りが生じる理由は二つあり、その一つは地球の自転軸が公転面から23.5度傾いていること、もう一つは地球の太陽を回る軌道が正円ではなく楕円であることによる。特に、地球が太陽に最も近づく時が、暮れの押しつまる頃で、冬至の少し後というのが、北半球の暗く長い冬を創りだしているということは、実はあまり知られていない。(興味のある方は、「アナレンマ」で検索されることをお勧めする)

まあ、そんなわかりにくい話は置いておいても、この寒さいつまで続くのか。その答えを早く知りたいものだが。




無人称は無責任 [新聞記事]

シンポジウム スポーツを読む基調講演:「スポーツを書くということ」沢木耕太郎、日経朝刊2012.12.25より

ノンフィクション作家の沢木氏は多くのスポーツものの執筆で知られている。「敗れざるものたち」では円谷幸吉を「一瞬の夏」ではカシアス内藤を取り上げて注目されたが、それまではスポーツというテーマに対して長文のノンフィクションを受け入れるということが日本ではなかったらしい。スポーツライティングという新しいジャンルを日本に定着させたと言ってもよいのだろう。

その沢木氏が12月4日のシンポジウム「スポーツを読む」の基調講演でスポーツを書くとはどういうことかについて熱く語っている。

そこで、“この数年、僕は気になっていることがある。あるタイプの記事がスポーツ紙からあふれるように出てきた” と、氏は述べている。あるタイプとは、記事に人称がないこと。その例として、巨人の原監督のコメントの後に、「あくまでも正攻法。横綱相撲で日本ハムを倒す」とあったのだが、倒すのは誰なのか。監督がそう言ったのか、そこまでは言わなかったが話を面白くするために尾ひれをつけるとそうなるというのか、よくわからない。誰が言ったかは、あえてあいまいにして、含みを持たせているつもりかもしれないが、確かになにか気味の悪さが残る。

これを氏は、“無人称は、無責任でもある”と断じている。書いてあることに対する責任はどこに、誰にあるのかと追求している。確かに読むほうは分かったような気になるが、そこには何の根拠もないという。確かにそうだ、読後の気味悪さはこれであろう。談話に基づいて、記者が自らの意見を述べるのならはっきりとそう書くべきなのだが、なぜかそうはしない。あたかもあいまいにすることが美徳であるかのように。

摩擦を恐れる、あるいは自分の責任を回避することが無意識のうちに行われているのではないか。スポーツだけに限らない。読み手にも関係してくるのかもしれない。

この「読み手に関係する」というところはドキッとさせられる。記者の手になる記事は世相の反映であり、こうしたものしか書かないのは、実は世間が厳しいものを望んでおらず、あいまいをよしとしているのではないかという痛烈な指摘であろう。

自身の責任を明らかにして物語をつくるのは恐ろしいことだ。勇気が必要だ。最大限取材して、こういうことなんだろうと勇気を持って世界に向かって接線を1本投げかける。それがスポーツライティングであり、広くノンフィクションと言われている書き物だ。その覚悟はフリーランスのライターにも、記者にも持っていてほしいと僕は思う

ここまでくると、ことはスポーツを書くということに止まってはいない。なんらかの書き物を世に問うすべての人、つまり職業記者から、作家、エッセイスト、最近ではブロガーに対して、勇気と覚悟を持てと強く求めている。確かに、事実に基づいていても、いくつかの事実から一つのストーリーを紡ぎだすのは創造であり、それを公開するのは非難や攻撃を正面から受け止めるという覚悟があって初めてできることなので、恐ろしいと思えばこんな恐ろしいことはない。まず恐ろしさを回避しようとするような雰囲気が社会全体に蔓延しているのだとすれば、物書きにこそ真の勇気が欠かせないということになるだろう。

そしてその一方で、読む側は、誰が言っているのかよくわからないことや、誘導ともとれるような記事に対して、はっきりと拒絶の姿勢を示さなければならない。選挙で大衆の水準以上の候補者を選べないのと同じで、無反応無表情の読者には尖ったところのない「ぬるい」記事で十分ということになりかねないのだから。

ネット上で雑文を書き散らしてはいないか、結果として社会のぬるさに加担するまねをしてはいないか。そしてなによりも「ぬるい」生き方をしてはいないか、もういちど自分を見直すきっかけにしなければ。


健康は脂ぎった食事から [雑誌記事]

「肉・卵・バター食べよう」長谷川熙、AERA 2012.11.19号 を読んで

肉や卵に偏った西洋の食事よりも、ご飯を中心にした日本型の食事のほうが健康的だと疑いもなく信じてきた。こうした日本型食生活は、特に糖尿病を防ぐものとされていた。言い換えれば、肉、卵、バターの摂取は糖尿病にはよくない、避けるべきだということになる。これは日本人の常識であり、脂ぎった食事は、糖尿病はともかく、体に良くないと固く信じていた。

ところが、これは全く逆であるというのが、今や世界の常識になっているというのだ。日本の農業や医療を中心に長く取材を続けてきた長谷川熙氏によれば、我々日本人は食と健康の常識について長く大きな誤りをおかしていたらしい。

糖尿病は、体内で糖質の消費を促進するインスリンの分解が滞るなどの変調をきたし、血糖値が高まることで血管の炎症を促し、それを壊すことに始まる。悪化するとまず目や腎臓などの微細血管が傷み、これがさらに悪化すると心筋梗塞や脳梗塞にいたる。その糖尿病の原因が先ごろ(!)まで炭水化物ではなく、脂肪の過剰摂取によるものと見誤られていた。

しかも、重要なことは、この“間違いに気づいた欧米ではとうに治療の転換がなされているのに、日本ではほとんどの医療現場がまだ旧態依然としている”ことであるという。

糖尿病の原因を、脂っぽい欧米型食生活に求めた従来説の否定に日本で先鞭をつけた一人である大櫛陽一氏(東海大名誉教授)は、「大勢の患者が間違った治療で苦しんでいる。そんななかでむしろ患者が作りだされ有害無用の治療・投薬をされている」と述べている。

それでは、なぜ海外の医学界も近年まで糖尿病の犯人を脂肪と決めつけてきたのか。大櫛氏は。この点について影響力の強い米国糖尿病学会(ADA)に引きずられたことが大きかったとしている。それでもADAは、2004年に「食後に血糖値を上昇させるのは炭水化物のみ」と認める根本修正を行い、糖尿病対策を脂肪から炭水化物の摂取抑制へと大きく方向転換した。それが、炭水化物摂取量の目安を1日あたり130グラムにすることにつながった。ちなみにこの値は、日本人の摂取量平均値260グラムの2分の1である。

こうした新しい知見は、糖尿病患者の治療に適用されただけでなく、健康な人も予防のために炭水化物食を半減させたらいいと同氏は勧めている。

そして、ここが重要なところだが、実は炭水化物摂取が体に良いという神話を作り、維持しているのは他のだれでもない「国」だったと長谷川氏は指摘している。

厚労省が5年ごとに改定する「日本人の食事摂取基準」(最新は2010年版)で、日本人のエネルギー摂取の50~70%を炭水化物でまかなうとしているのだ。さらに、この背景として、2000年に農水省、文部省、厚生省によって定められた「食生活指針」とこれを外食産業にも徹底させるために2005年に定められた「食事バランスガイド」があるという。この指針とガイドラインで食事を主食と副食にわける日本の食習慣が「国策」的に固定化され、ご飯やパン、麺などの炭水化物が最重要食として位置付けられた。糖尿病という医療の問題が、農政の影響下にあったのだ。日本の農業を支えるという大義と糖尿病対策がなんの不思議もなく結びついたのだ。これについて長谷川氏は「糖尿病を国家が多発させている」と断じている。


それにしても、健康に良いと信じてきたことが、全く逆さまであったとは。明日から、いや今日からでも、脂ぎった食事に切り替えていかなければ...

居酒屋のことをイギリスでは [論文を読んで]

「身近なパブリックを支える社会基盤の構築を」中井 祐 東京大学大学院教授、土木学会論説2012.8を読んで

イギリスでは、たしかに大衆酒場のことをパブリック・ハウスという。中井氏が指摘するように、このパブリックという語の用法には違和感があった。日本語でパブリックを公共と訳しているとすると、パブリック・ハウスは「公共酒場」となり、あたかも官営の居酒屋のようなニュアンスを持ってしまう。きっとそういう場所では、お上や政府の悪口を言うことは許されず、それでは酒の味もきっとまずいにちがいない。それでは、もう少し緩やかに「国民」とか「市民」とかのこと、すなわち不特定大多数のことかというとそうでもないという。そういう一般論としてぼんやりした概念ではなく、もっと具体的に「オレたち」という特定多数で共有する価値のこと、コモンのイメージに近いという。

こう説明されても、まだなんとなくしか理解できないのだが、“われわれが「公共」だと思っていることは、明治以来の中央集権的近代国家の成立発展と市民社会の発達という文脈のなかで形作られてきた概念にすぎない、 ・・ 「国家=官=公共」という図式における公共であり、それは個人=民=私との二項対立的関係を含んでいる“ ・・中略・・ “土木には、基本的に公共(=官=国家)に奉仕することが本義であり、公共への大義を通すことを、個々の私にたいする具体の貢献よりも上位の目的に置く、という暗黙の前提あるいは精神構造がある。”
とまで言われると、なるほどそうかもしれないと思ってしまう。

中井氏は、こうした日本の近代化の流れの中での公共、とくに土木分野での公共の果たした役割、豊かで安全な社会の形成など、を否定してはおらず、むしろその功は大であったと認めている。しかしその一方で、地方中小都市の不振、中心市街地の空洞化、地域コミュニティの機能不全、持続困難な農林漁業など、各地各所で深刻な問題を抱えたままであり、これらは「公共」と「私」への極端な分化が進んでいることの表出だと指摘してもいる。

”公共と私の中間にある領域というべき空間スケールで現象する問題群にたいして、従来の土木はほぼ無関心であったし、いまでも土木の問題として当事者意識をもって論じられることはあまりない“
そして、この中間領域の劣化にたいして、その解決に正面から取り組むべきであるとして次のように述べている。

“不特定多数ではなく、特定多数で共有し、個への具体的な還元が日常的に実感できるような価値、すなわちそれぞれの地域や町における共同体としての日常生活を価値づけるような身近なパブリック(=コモン)の修復あるいは再構築である”
いま必要なのはパブリックの修復であると言われても、残念ながらすぐには腑に落ちない。これは、小生が長い間「お上」の仕事に関わっていたことによる性癖によるものかもしれない。あるいは、公共に対する積年の不信がなせるわざかも。

かの国のパブのように、「オレたち」という共有価値を議論のまんなかに置けるようになるには、はたしてどれだけの時間が必要になるのだろうか。



お酒と肉とお菓子が大好き [雑誌記事]

ドリトル先生の憂鬱098、福岡伸一、AERA 2012.10.22より

寿命を制御する遺伝子として華々しく登場したサーチュイン遺伝子。この遺伝子を活性化すると寿命が延びることが、酵母、線虫、ハエなどモデル生物で報告され、さらにカロリー制限による寿命延長さえも説明できるかもしれないというところまできていた。ところが、ほんのここ数年の間にその仮説に疑問が出てきた。簡単に言えば、実験が間違っていたということらしい。そもそも「寿命」というマクロな事象が、たった一つの遺伝子によってコントロールされうるというアイデア自体がひ弱に過ぎたらしい。福岡先生によれば、「生命現象を甘く見てはいけません」ということのようだ。

ところが、ここにきてさらに追い打ちをかけるようなことになりつつあるという。すなわち、とんでも遺伝子の件はともかく、カロリー制限による寿命延長だけは間違いないとされていたものが、どうもそうでもないらしい。つまり、この寿命の延長効果は、ネズミのように寿命が短い(寿命は2年)生物に限って生じると修正せざるをえなくなっているという。

米国国立加齢研究所のアカゲザルを使った研究によると、ダイエットの寿命に与える影響を20年間にわたって根気よく追いかけたところ、死亡率に差が出なかったという。カロリーはエネルギー生産のため必須だが、代謝による活性酸素を生み出すため、過剰なカロリー摂取は長寿を結果として妨げるとこれまでは説明されてきたのだが、それはネズミのように代謝率の高い(したがって寿命も短い)動物には適用できても、サルには適用できないらしいのだ。

いやあ、これにはびっくり。健康長生きの秘訣は、とにかく活性酸素を不要に生じさせないことと信じてきた。信念?に従って、酒も肉も菓子も、見るからにカロリーに満ちあふれているものは、できるだけ控えめに心がけた。粗食がステキ、大食はイカンということにしてはいたが、これがなかなか守れない。それでも、とにかく食事には配慮して節食に努め、なんとか健康を維持し、長生きするぞと思っていた(もちろん勝手にだが)だけに、正直この話は、不意打ちを食らった思いだ。

福岡先生はこう言っている。
「長寿への道は複雑です。あまりヤセ我慢をするべきではない」

そうか、やせがまん、か。これで、いっきにタガがはずれたりして。
どうしようかな...


くだくだしきを笑ひたまふな [読後の感想]

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「ことばのうみのおくがき」大槻文彦 を読んで

大槻文彦という明治の巨人の紹介から始めなければいけない。
時代が徳川から新しい時代に変わったばかりの明治8年に、日本は自らの国の言葉の柱となるべき国語辞典の編纂に敢然として取り組むことになった。その中心でただ一人でこの途方もない責務を負ったのは、そのとき28歳の大槻文彦だった。祖父大槻玄沢は幕末の卓越した蘭学医であり、父の大槻磐渓も仙台の藩校養賢堂の塾頭を勤めた儒学者という名門に生まれた文彦は、本人さえも思いもよらぬ難事業の遂行を委ねられることになってしまったのだ。

この時代、欧米列強が取り組んでいることはすべて取り入れ、消化し、一刻も早く列強に追いつくしか日本の生きる道はないという強い思いが、新しい日本をごりごりと動かしていた。それは、軍事であり産業であり教育であったのだが、その中で国の言葉の統一という点に着目したことは、いまから考えても大変な見識であったと言わざるを得ない。そのころに米国ではウェブスター、英国ではオックスフォードなどの大辞典が編纂され、国力を支える文化教育の力が顕在化したこともあり、同じことを日本でも取り組むべきという意見が出たのであろう。

不思議なことは、その実行が大槻文彦という、わずか28歳の若輩者、しかも大変な勉強家ではあるものの、国語の専門家ではない者を選び、そのすべてを一人に委ねたというところだが、これが明治の明治たるところだと言えばまさにそうなのかもしれない。

この大槻文彦の艱難辛苦については、高田宏氏の「言葉の海へ」に詳しいので、あえて踏み込まない。次の機会には「言葉の海へ」についても紹介をしたいと思うが、ここでは文彦が17年の苦難の後に作り上げた日本初の国語辞典「言海」の出版について、その「おくがき」で述べている文彦の本音について触れてみたい。著作者が完成した作品の最後に付け加える後書きは、普通はあくまでもつけたしであり、多くは謝辞と感謝の言葉で埋め尽くされるものだが、文彦の残している「おくがき」はこうしたものとは全く異なっている。あまりに正直な、壮絶なる苦労の吐露と、壮大なる事業を終えた後に残した深い後悔に満ち満ちており、読む者を圧倒する。同時に17年を機械のように働き続けたものとしてではなく、熱い血を流す明治の男として時代を駆け抜けたことがこの「おくがき」から読むことができる。

大槻文彦の青春のほぼすべてを投入した「言海」の完成には、なんと17年を要している。始めたときには28歳の若き青年だった文彦も、これを終えるときには45歳になっていた。それでも、文彦自身もこの事業にとりかかった最初は、まだ全体像を把握できていないこともあって、軽くみていたところもあったようだ。既に存在するウェブスター辞典を直接の見本として、単語とその説明をそれぞれ日本語に訳し、日本語の順に並び替えればできたも同然だと考えていたらしい。ところが、実際に資料を集め、編纂を始めてみると、まったくそうした想定があてはまらないことばかりであることを思い知らされることになる。国語の辞書を近代国家として初めて編纂するということは、それまで放置されていた言葉の使われ方の原則を完全に洗いなおすということでもある。しかも、言葉は時代とともに変わる生き物であるから、古い使われ方と現在の形の対比を確定しなければ、混乱が混乱を呼ぶことになりかねない。頼りとすべき国語の文法さえも、同時に構築しなければならないことに、文彦は深い迷路に踏み込んでから気づいたのだ。

“筆執りて机に臨めども、いたづらに望洋の歎をおこすのみ、言葉の海のたゞなかに櫂緒絶えて、いづこをはかとさだめかね、たゞ、その遠く廣く深きにあきれて、おのがまなびの淺きを耻ぢ責むるのみなりき。”

こうして完全にお手上げになってしまうのだが、文彦のえらいのは、ここで父や祖父から耳にタコができるほど言われている次の家訓であった。

「およそ、事業は、みだりに興すことあるべからず、思ひさだめて興すことあらば、遂げずばやまじ、の精神なかるべからず。」
「遂げずばやまじ」というのは、できませんという言葉は大槻家にはないということである。これはきつい。きついが、退路を断つという意味では極めて有効であった。「おくがき」に繰り返して書いているように、これがなければ言海の作成は途中で放棄されていたかもしれない。実際にこの途方もない事業の最中に、文彦は次女と妻を急性の病で失っている。一方で経済的にもどん底の状態であったようだ。その際の塗炭の苦しみと悲嘆に暮れた心境さえも、この「おくがき」に隠すことなく記している。

“半生にして伉儷を喪ひ、重なるなげきに、この前後數日は、筆執る力も出でず、強ひて稿本に向かへば、あなにく、「ろ」の部「ろめい」(露命)などいふ語に出であふぞ袖の露なる、卷を掩ひて寢に就けば、角枕はまた粲たり。”

この「おくがき」の最後には、自分の細々とした苦労話をあえて人に示すのもどうかと躊躇した(くだくだしきを笑ひたまふな)と記しているが、やはりこれだけの大事業を支えた人間の存在とその生き様を、こうしたささやかな形でも残しておきたかったのであろう。

さらに、文彦はこの「おくがき」の最後に續古今集の序文を載せて締めくくっている。自分が人生の多くを費やして作ってきたものは、まさに「言葉の海にして拾ひし玉」であったのだ。

續古今集序
いにしへのことをも、筆の跡にあらはし、行きてみぬ境をも、宿ながら知るは、たゞこの道なり。しかのみならず、花は木ごとにさきて、つひに心の山をかざり、露は草の葉よりつもりて、言葉の海となる。しかはあれど、難波江のあまの藻汐は、汲めどもたゆることなく、筑波山の松のつま木は、拾へどもなほしげし。
同、賀
敷島ややまと言葉の海にして拾ひし玉はみがかれにけり  後京極








コンピュータオタクに女子はいない? [雑誌記事]

「なぜ女性からザッカーバーグは生まれないのか」AERA 2012.9.10:編集部 甲斐さやか、を読んで

女性はコンピュータと相性が悪い?という疑問の提起である。これは、意表をつかれた感じ。本来、女性に向いているように思われがちなIT系の業界に、実は女性技術者があまりいないという指摘は驚きでもある。
そもそも日本では小さいころからコンピューターに興味を示さない女の子が多い。社会環境の差だけで説明するには、あまりにも男女差が大きい。

世界的に見ても、名だたるハッカーやIT創業者(多くが自分でコーディングしていた:ザッカーバーグのように)は男ばかり。著名なプログラマーや技術者に女性は決定的に少ない、しかもビル・ゲイツの時代から現在までその状況は大きく変化していない。ようにみえる。これはいったいなぜなのだろうというのが、この特集記事の投げかけた疑問だ。
では、日本ではどうなっているのか。経済産業省によれば、国内IT人材とされる86万人のうち、女性は2割強。大学の情報系学部学科でも同じような状況で、1,2割程度だという。そもそも理系女子の比率も高くはないのだが、これではまた諸外国に負けてしまうと思いきや、かのIT大国である米国でもそうだという。例えば、2010年から2011年にかけてコンピューター科学の学士号を取った女性は、12.7%。生物科学が6割、化学が5割もいるのに比べ、極めて少ない。どう考えてもこの数値は低すぎるようにみえる。

女性がコンピュータに興味を持たないのはなぜか。“男の子と女の子では、脳が欲しがる物語が違う”と語るのは「感性リサーチ」社長の黒川伊保子さん。
世界を俯瞰して抽象的な一般解を出す力や、奥行きをとらえ、全体を見通して現状を把握する力を、男の子の脳は最初から無邪気な感性傾向として持っているんですね。これってコンピューターの世界そのもの。対して、女の子は私だけのモノ、つまり特殊解を求めたがる

先天的な脳の構造が違うのだという説明はわかりやすいが、後天的に取り戻せないほどのものかとの疑問もわく。それに対しては、コンピューターに向かって一般解を出す作業を楽しくマニアックにやれるかどうかが違うために、この分野における男女差が生じているのではないかという。つまり、女性はいつまでも(男の子のように)一般解探しばかりしているより、現実的な応用分野への適用の方に興味が移ってしまうということらしい。男は夢ばかり追いかけていて、いつまでたっても子供だよねということなのだろうか。

こうした男女の違いが、高校から大学への進路選択にも大きく影響していると、津田塾大学の来往伸子教授が指摘している。
高校で文理にコース分けされる前まで数学がそれなりに得意だったけど、英語や社会がもっとよくできるからと文系に進んだ女性のなかに、潜在的な能力を持っている人がいるのではないか
つまり、早熟でコミュニケーション力が高く、目的意識が明瞭な女性ほど、具体的な姿の見えにくいコンピューター科学より、社会に直接に結びついていると感じられる学部学科に流れてしまうのだという。これまでの多くの調査結果は、コンピューター科学に必要な資質において男女の差はほとんどないと示しているし、男女の差が仮にあったとしても、“少なくとも仕事の現場で差し支えるようなレベルの能力差はまったくない”と「ネットイヤーグループ」の石黒不二代CEOは明確に述べている。

なるほど、と思わず膝を叩きたいところだが、その一方で、成績上位の子は医学部へ進むことになっている(医学の道を究めたいから勉強して医学部へ進学するのではなく)という、昔からある進学伝説を連想してしまった。議論の土俵が違っているかもしれないが、適性と進路という選択システムが国の将来を決めるという点では同じく重要な問題だと思うのだが。

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